きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.9.27 栃木・和紙の里 |
2008.10.14(火)
知人の朗読会があったのですがサボらせてもらいました。朝のうちは印刷所に行って日本詩人クラブの11月例会・研究会案内状の印刷を依頼し、あとはいただいた本を拝読して過ごしました。
○西山幸一氏詩集『肩』 |
2008.10.15 高知県高知市 ふたば工房刊 1500円+税 |
<目次>
T 学校
言葉のない教師 8 訪問学級 10 さっちゃんと勉強 12
ぶっきらぼう 14 ペン 16 シナリオ 18
呼び水 20 教科書 22 なぜ 24
背中 26 教科書通り 28 文明 30
障害 32 坂 34 美 36
浮 38 交流学習 40 食事風景 42
車内 44 涙 46
U 家族
しからない家 50 肩 52 台風一家 54
おじいちゃんになるまで 56 ピース 58
うさぎ 62 おむすび 64 鯉のぼり 66
母と買い物 68 金婚式 70 釘打ち 72
骨 76 稲穂 78 祖父 80
祖父母 84
V 友
水さし 90 球ひろい 92 ひとづて 94
失敗 96 人徳 98 うれしい人は 100
錯覚 102. 電車掃除 104. 幼き日 108
W ことば
悲しみの向こうに 112. うれしいことだけ 114. 大目 116
傘 118. 反対言葉 120. ふと 122
話泥棒 124. うそ 126. 携帯 130
鏡 132. 耳 134
跋文・小松弘愛 137
あとがき 145. カバー装丁・中井 悠
肩
夜 息子と小屋で
探し物をしていると
父が帰って来た
二人を見た父は息子に
何をしていると声をかけた
僕が本を探している
と答えたが
父は何も言わずに歩いた
父に何も答えなかった息子は
腰の曲がった父の
そばにいき
肩を並べて歩いた
父の肩に手を回して
小さくたたいた
小屋を出た僕に
二人の背中が
玄関に入っていくのが見えた
灯りがついたが
二人の話し声は
僕には聞き取れなかった
第1詩集です。ご出版おめでとうございます。あとがきによれば、高知新聞の「詩壇」に入選したり佳作上位になった作品を中心にまとめたそうです。ここではタイトルポエムを紹介してみました。「息子」と「父」と「僕」の3代が登場しますが、〈父は息子に/何をしていると声をかけた〉にも関わらず、〈僕が本を探している/と答え〉、〈息子は〉〈何も答えなかった〉わけで、一瞬、不仲を感じました。しかし、そうではなく、息子は〈父の肩に手を回して/小さくたたい〉ています。そして〈二人の話し声は/僕には聞き取れなかった〉わけですけど、ここには3代の言葉を必要としない関係が表出していて、声高になりがちな現代を静かに批判しているように感じました。もちろん批判≠ニいう意識もないでしょう。が、私たちが忘れてしまったものを思い出させてくれます。このトーンは詩集全体に貫かれていて、佳い詩集だなと思いました。今後のご活躍を祈念しています。
○外村文象氏著『精神の陽性』 金澤文學文庫017 |
2008.10.24 石川県金沢市 金沢文学会刊 800円+税 |
<目次>
T
精神の陽性……………………………………10. 作家外村繁の作品を読む……………………19
私の詩の軌跡…………………………………28. 内田照子の光と影……………………………38
イギリスの紅いバラ…………………………49. 追悼 平塚ミチル……………………………52
銀河・詩のいえのこと………………………55. 大阪詩壇絵図…………………………………58
京都詩壇絵図…………………………………61. 兵庫詩壇絵図…………………………………64
滋賀詩壇絵図…………………………………67. 奈良詩壇絵図…………………………………70
和歌山詩壇絵図………………………………73. 七十歳の日記…………………………………76
U
外村繁生誕百年へのアプローチ V………94. 外村繁生誕百年へのアプローチ W………100
外村繁生誕百年へのアプローチ X………105 外村繁生誕百年へのアプローチ Y………109
外村繁生誕百年へのアプローチ Z………113 凛凛しく………………………………………118
川の流れ 時の流れ…………………………123 ブルージュ再訪………………………………127
初めての韓国…………………………………130 日中交流スケッチの旅………………………134
イタリアリビエラ海岸と南フランスの旅…138 病床日記………………………………………142
伊藤茂次詩集「ないしょ」について………147 国民学校と新制中学校の世代………………152
自作を語る……………………………………157 文学の町 五個荘町…………………………161
伊藤茂次の死…………………………………165 「学童疎開」京都の集い………………………167
小学校では いま……………………………173 不死鳥伝説……………………………………179
二十一世紀の船出……………………………185 東淵修の波瀾万丈……………………………191
福中都生子さんの業績………………………202 筧槇二さんの「山脈」………………………204
V
宮沢賢治のふるさと…………………………210 チェコヘの旅…………………………………218
熟年の楽園ヒートホールン…………………231
あとがき………………………………………242 表紙・扉絵/著者 外村文象
精神の陽性
最近の世相を見ていると、政治家への不信、殺伐とした事件の続発、貧富の格差のひろがり、活字離れなどプラス要素はほとんど見当たらない。うつ病の患者が増え、自殺者も跡を絶たない。憂慮すべき世相である。
高齢化の時代を迎えて、年金問題が深刻化している。薬害問題も大きな話題となっている。人々の気持ちは暗く沈みがちとなる。こうした時にこそ、精神の陽性は貴重と言える。
私は母子家庭に育って、暗い少年時代を過ごして来た。決して明るい性格ではなかった。学業を卒えて社会に出て、紡績会社で働くようになって、そこは明るい雰囲気だった。家のために真面目に働くことを求められた。
結婚して、妻は明るい性格だった。子供にも恵まれて幸せな生活が続いた。経済的にはそれほど豊かではなかったが、人並みの生活を送ることができた。
繊維産業は斜陽化の時代で、多角経常で活路を見出して行った。従業員には変革が求められ、負担を背負うこととなった。団体生活の中では個性は抹殺され、一個の歯車にしか過ぎなかった。
私は自分を取り戻すために、詩を書くことを続けて来た。近江詩人会に所属して、月一回開催される例会には出席していた。
会社の労働組合は全繊同盟に加盟していたが、総評のような激しさはなく、ぬるま湯的なところがあった。全繊新聞に詩を投稿したこともある。時々掲載されたが、どれだけの人達が読んでくれていたかは心許ない。
組織の中で自分を伸ばして行くことは難しい。私は人と交わることが苦手だ。だから労組の役員なども避けて来た。しかし、振り返って考えてみると、労組の役員を経験した方が良かったのではないかと思える。困難の中へ飛び込んで行ってこそ、自分に自信ができ、自分が磨かれる。安易な生き方をしていては、いつまでも道は開けない。他力本願ではなく自分が努力することで良い結果が得られる。
河内長野市在住の中村光行主宰の「人間」に所属するようになって、本格的な詩作活動が始まった。個性的な同人が集まっていて、詩作の刺激となった。同人会では酒を飲みながら激しい議論が闘わされた。
一九六三年に第一詩集「烏のいない森」を上梓した。東京在住の杉克彦に依頼した謄写印刷だった。近江詩人会で彦根の寿司屋で出版記念会を開いてもらった。
翌年第二詩集「愛のことば」を京都の双林プリントで印刷し上梓した。「愛のことば」は三好達治選で「小説新潮」に天位になった作品である。
一九六九年には中村光行の天幕書房から掌詩集「花茣蓙」を出版した。わずか五篇の小詩集だったが、注目を集めて評価された。中村光行の力添えが大きかった。
一九七七年には第四詩集「異郷」を近江詩人会から出版した。この詩集で第二十八回滋賀県文学祭出版賞を受賞した。出版記念会には妻も出席してくれた。
四十三歳になっていた。一家を支えるために懸命に働いた。サラリーマンと詩人の二足の草鞋であった。詩はお金にはならない。世間は詩人など評価しない。だんだんと社会の片隅へ追いやられていく。
三人の子供に恵まれ、一家五人で生きて行くのは大変だった。そんな日々の中で自分の詩集が持てたことは幸せだった。詩を通じての友人は増えて行った。同じ志を持つ人達との交流、励ましがあって詩作が継続できた。正に継続は力なりで、ひたすらこの一筋の道を歩み続けて行こう。私が道をそれずに真っ直ぐに歩いてこられたのは、芸術との触れ合いがあったからだ。ミューズの前にサタンは平伏す。
二歳違いの長男と長女が大学と短大を卒業し、長男は流通業に長女は証券会社に就職が決まって前途が明るくなった。世の中は好況に浮かれていた。
私は子会社へ役員として転出していたが、現業のきびしさを身に刻む日々だった。寒い冬の日、通勤の駅でコップ酒を飲んで一日の疲れを癒やした。
昭和六十三年に、私達夫婦は銀婚式を迎えていた。二人で沖縄旅行をした。水族館が美しかった。そして海の青さが今も記憶に残っている。
平成元年三月、長男夫婦が結婚した。伴侶は職場の同僚だった。
その年の夏に、私達夫婦は娘二人を伴って初めての海外旅行をした。行く先はシンガポールであった。思えばこの時がわが家にとって最も幸せな時であった。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。翌年六月二十日に妻は五十歳の誕生日を迎えたが、体調を崩していた。割れるような頭痛に悩まされていた。市内にある医大で診断の結果は、脳腫瘍であった。即刻脳神経外科に入院し手術を受けた。この時、私には残念乍らこの病気に対する知識がなかった。妻の両親も長寿であったので油断をしていた。むしろガンになるのは私だとばかり思っていた。医師からは回復の見込みのないことを告げられていた。すでに抗ガン剤も受けつけない状態だった。
その年の十一月五日に妻は昇天した。
長男夫婦は新居を構えていたので、娘二人と私との生活が始まった。二女は高校三年生だった。葬儀の前日が短大の受験日だった。動揺の中での合格は見事だった。精神力の強さを感じずにはおれない。
一九九一年に第五詩集「鳥は塒に」。
一九九二年に第六詩集「天女の橋」を上梓した。いずれも妻の追悼詩集である。幸いにして多くの人々の共感を得ることができた。詩と共に歩んで来たからこそ、この難局を乗り越えられたと言える。
妻の一周忌が過ぎて、平成四年三月に長女が結婚した。娘を手離すことを嫌う父親もいるようだが、私は娘の幸せを第一に考えて来た。二人の新しい門出を祝福した。
定年を迎える一年程前に、勤務先に絵画クラブが誕生した。現役とOBを対象としたもので、講師は滋賀県草津市在住の洋画家新庄拳吾先生(元光風会会員)であった。高校時代に私はクラブ活動として美術部に所属していたので、早速入会した。殺伐とした社員生活の中で、共通の話題が持てる友人が出来たことは大きな喜びであった。
定年後は、地元の高槻市絵画同好会に所属して、クロッキーを描くようになった。そして、ヨーロッパヘのスケッチツアーの存在を知った。高槻市在住の洋画家K氏の企画によるもので、一人でも参加できることが何よりの利点だった。
一九九五年七月にフランス、ベルギーの旅をして以降、毎年このツアーに参加するようになった。
旅は人間を開放的にする。ヨーロッパの文化の香りを味わいながら、教会や美術館で多くの秀れた作品に接して来た。
日本はアメリカに追いつけ追い越せと、がむしゃらに経済面での豊かさを追い求めて来た。だが残念乍ら精神面での豊かさを置き忘れていたのだ。
ヨーロッパには中世の美しい景観が保存されていて、人々はゆったりとした日常を過ごしていた。文化的な生活をエンジョイする人々の姿にふれることができた。これからの日々は心豊かに生きたいと願うようになった。
詩人はヨーロッパでは尊敬されている。だが日本での地位は低い。マスコミからは阻害され、同人雑誌に活路を見出している。同人の高齢化が進む一方で、若い人達の関心は低い。前途は多難である。
一九九五年に第七詩集「星に出会う」を上梓した。
定年を迎えた後は、自己研鑽を心掛けた。市の文化振興事業団主催の高槻文化大学の講座を受講した。講師は一流でレベルは高かった。その他に生涯学習センター主催の講座も受講した。夏目漱石や宮沢賢治を学んだ。私達の幼少期は童話を楽しむ環境ではなかった。失われた時代を取り戻すために、賢治童話に親しんだ。講座の後にゼミナールがあり、引き続いて毎月一回の勉強会を持っている。小学校の先生や幼稚園の先生のOBが主なメンバーで、私のような男性会員は例外である。しかし、女性と身近に接することによって学ぶことも多かった。
他には、外国旅行のためにシニア英会話を学ぶことにした。市の都市交流協会が五十五歳以上の人を対象にして、外人講師による英会話教室が開設され、早速入会した。四年間で修了した後も、現在は日本人講師の教室で学んでいる。学ぶことによって心が充たされて行く。活力が身体に漲ってくる。
一九九九年、千葉龍主宰の「金澤文学」第十五号から加入した。詩の他にエッセイや小説も発表できる文芸同人誌である。千葉龍は新聞記者出身で旺盛な創作活動をしている。
東京一極集中の時代ではあるが、石川県金沢市という地方に育つ文学こそ健全であるように私には見えた。
二〇〇〇年には、初めてエッセイ集「癒やしの文学」を待望社より上梓した。東京の小さな出版社ながら良心的な仕事をしてくれている。
いつからか、私は楽天的になって来ていた。眠れないから睡眠薬を飲んでいる、という声を身近で聞くことがある。私も眠れない時期があったが、あまり深刻に考えないようにしている。五時間も寝れば充分なのだ、と自分に言い聞かせて気持ちを楽に持てば、自然と眠りを誘うことができる。私の作品を「精神の陽性」と評してくれた女流詩人がいた。この資質を大切にして行きたいと思っている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
8年ぶりの第2エッセイ集です。『金澤文學』、『人間』、『銀河詩手帖』などに発表した作品を収めたとあとがきに書かれていました。ここではタイトルでもあり巻頭の「精神の陽性」全文を紹介してみました。著者の半生がコンパクトにまとめられています。そればかりではなく、このあとに続くエッセイの導入部としての役割も担っているように思いました。本著のタイトルともなった〈私の作品を「精神の陽性」と評してくれた女流詩人がいた〉という部分は、私も何度かお会いしている著者をよく見た言葉だと思います。実際の著者は疎開を受け入れた側ですが、疎開世代の歴史的証言集という側面も持つ好著です。機会のある方にはご一読をお薦めします。
○詩誌『るなりあ』21号 |
2008.10.15 神奈川県相模原市 荻悦子氏ほか発行 300円 |
<目次>
荻 悦子 ポゾゾル 1 * 翌朝 3
鈴木正枝 路肩 5 * じかんを じかんと 7
氏家篤子 海の扉 9 * 秋 11
あとがき
じかんを じかんと/鈴木正枝
一週間で
一時間が一時間四十二分になった
じかんは伸びるんだよ
という声を聞いて
身動き出来なくなる
犯人は誰か
こっそり両手両足を点検する が
証拠は何処にもない
伸ばされたじかんが
詰め寄ってくる
その目的
必要性は?
その個別性と集合性
それによる知的効果と感情的効果は?
たじたじと後ずさりし
その果てで棒立ちになる ああ
どうして伸びてしまったのだろう
伸ばされた部分は
どうやって生きていけるのか
あつめられて名前をつけられ
何かの付属物になって
ぶらさがるのか
余分なものの居場所はない
という声と同時に
棒立ちの振り向きざま
えいっと
思いもかけず振り下ろしてしまった
そのむこうに
風に揺らいでいるのは
わたしの影
切り落とされた分だけ
短くなって
途方にくれて
さいなまれて
〈一週間で/一時間が一時間四十二分になっ〉て、〈じかんは伸びるんだよ/という声を聞〉くという面白い発想の作品です。じゃあ、〈伸ばされたじかん〉は〈どうやって生きていけるのか〉と思ったら、〈切り落とされた分だけ/短くなって〉しまうのですね。私たちはよく時間が足りない≠ニいうことを言い、それでジタバタしているわけですが、その逆を突かれたと思います。しかし、仮に時間が余るようになっても〈あつめられて名前をつけられ/何かの付属物になって/ぶらさがる〉しかなく、〈余分なものの居場所はない〉のだとも教えてくれています。やはり〈その目的/必要性〉、〈その個別性と集合性/それによる知的効果と感情的効果〉を考慮しなければならないのが〈じかん〉のようです。
← 前の頁 次の頁 →
(10月の部屋へ戻る)