きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.10.9 八方池




2008.11.8(土)


 午前中は日本詩人クラブの理事会が東京大学駒場Tキャンパスで開かれ、午後は同所・学際交流ホールで例会が開催されました。講演は、ロバート・キャンベル氏による「美人図によせる詩歌」。東大教授で、NHKを始めとしたマスコミでも名の知られているキャンベル先生の日本語は明瞭でしたから、とてもよく頭に入ったように思います。

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 内容を当日のパンフレットから紹介してみますと、
〈江戸時代から明治にかけて描かれた女性のポートレートには、漢詩、漢文、和歌、発句、狂歌など夥しい韻文が向けられている。実際画面に書き付けられるものもあれば、「美人図」を類型のテーマとして絵画とは別次元に作られ鑑賞された作品も多い。異性(ほとんどの作者は男)の絵姿を契機として詠まれた詩歌が誰のためにあり、何を伝えようとしたのかを今回の講演を通して探ってみました。〉
 ということになります。

 写真は会場風景です。海外の美術館蔵の美人画も示しながら、漢文も鑑賞しながらのとてもわかり易い講演でした。参加者は60名ほどと、ちょっと少なかったのですが、懇親会には40名ほどが訪れてくれて、和気藹々と秋の一日を堪能しました。




大家正志氏雑文集『わたくしごと』
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2008.11.15 高知県高知市 ふたば工房刊 2000円+税

<目次>
終わりなき日常 8 宮台真司、内山節、和歌山カレー事件、ほか
精神科医の薦める映画を見る 14 「ナッツ」、ルイス・ブニュエル、「明日を夢見て」、ジャック・ラカン、河瀬直美、大木裕之、ほか
全共闘のことなど 21 高沢皓司、荒井晴彦、長田弘、ほか
タコ社長 そのほかのこと 25 速水由紀子、辻元佳史、ユーロ、養老孟司、上野千鶴子、ほか
川本さん 31 川本輝夫、ほか
足立正生 32 足立正生、ほか
普通の子 33 宮台真司、ほか
風の行方 36 長野恭二、山田隆昭、ほか
生の予感 41 石井葉子、工藤政秀、ほか
若い人の個展を見に行く 45 石井葉子、リチャード・ドーキンス、一井洋子、ほか
えっ? 53 9・11
美しさについて 55 木下涼子、国吉晶子、「キシュ島の物語」、「
DISTANCE」、ほか
原器 ほか 61 安井勝宏、堀慎吉、浪越篤彦、土方佐代香、ジャック・ラカン、ほか
美術館という器 66 山本容子
国家に所属したくなかった 68 映画、イラク、北朝鮮、南極、横田めぐみ、ほか
ふたりの男 73 沢木耕太郎、ほか
理不尽な死と生 77 宅間守、猪野睦、村上籠、ハンナ・アーレント、「鬼が来た!」、ほか
小津の映画をTVで見る 85 小津安二郎、イングマール・ベルイマン、ほか
君が代・車椅子 90 石原慎太郎、ほか
報道について 94 「春にして君を想う」、「女性国際戦犯法廷」、タマちゃん、ハルウララ、ほか
豊かな生活? 99 シネコン、吉川修一、「ドックヴィル」、「アフガン・零年・OSAMA」、ほか
ダイナミズムについて 104 マイケル・ムーア、原一男、渡辺文樹、国吉晶子、和田朋子、安井勝宏、ほか
コルトレーンのこと 114 ジョン・コルトレーン、ほか
ベルトルッチのことなど 118 橋田嘉宏、リチャード・ドーキンス、ベルナルド・ベルトルッチ、ほか
細胞のことなど 123 安藤義孝、「父、帰る」、ほか
原子の配列は美しい 128 武内理能、「息子のまなざし」、「堕天使のパスポート」、ほか
電信柱 132 「トニー滝谷」
無意味な死 134 DNA、「カナリア」、「サリンジャー戦記」、「精神と物質」、「利己的な遺伝子」、ほか
「さよなら 幸子さん」 144 インターネット、三島由紀夫、若松孝二、大江健三郎、ほか
あるいは、マスコミ 150 辺見庸、ホリエモン、ほか
ソラリス 154 スタニスワフ・レム、アンドレイ・タルコフスキー、ほか
模倣のことなど 157 清野浩二、和田義彦、オーソン・ウェルズ、「白バラの祈り」、アメフトユニット、ほか
困ったことを 164 ギュンター・グラス、アゴタ・クリストフ、ミラン・クンデラ、サイモン・シン、藤原正彦、ほか
根拠 179 菅沼稔、長野恭二、「ココシリ」、ロバート・アルトマン、JAZZ、藤原新也、草野信子、ほか
キム・ギドク 200 キム・ギドク
騒々しいことなど 206 17年蝉、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、原発、七転八倒ライブ、レバノン、中堂けいこ、ほか
柳美里のことなど 219 「カポーティ」、「狼少女」、柳美里、灰谷健次郎、ほか
ベルイマン死す 232 加藤典洋、憲法、イングマール・ベルイマン、足立正生、苅谷礼、ほか
詩は呼吸 252 マックス・ロ−チ、林嗣夫、マルチィン・ブーバー、内山節、勅使川原三郎、嶋岡晨、ほか
規制するのは誰 268 近藤弘文、「カインの末裔」、札幌「蠍座」、森達也、アキ・カウリスマキ、ほか
ロブ=グリエが死んでから思いだしたことなど 294 アラン・ロブ=クリエ、ヌーヴオー・ロマン、ロラン・バルト、黒崎政男、内田樹、ほか




 話は変わるが、ぼくは俳句≠フ良さがよくわからない人間である。
 ロラン・バルトに言わせると「俳句の読解の企ては、言語を宙吊りにすることであって、言語を喚起することではない」そうだ。
 日本見聞録である『表徴の帝国』(新潮社、宗左近・訳)のなかでバルトは次のように言っている。
 「俳句においては、言語に見切りをつけるということが、わたしたち西洋人の思い描くこともできない重要な関心事なのである。意味が溶けでることがない、内在化することがない、にじみでることがない、はずれでることがない、暗喩の無限、象徴の気圏のなかにさまよいでることがない、こういうことを表現するために、たいせつなのは簡潔であること(つまり意味されるものの濃密を減少させることなしに、意味するものを要約すること)ではなく、逆にその意味の根源そのものに働きかけることなのである。俳句の簡潔は形体のためのものではない。俳句は、短い形式に還元された豊かな思念ではなくて、一挙にその正当な形をとった短い終局なのである」
 なるほど、と思ったりする。
 ぼくは言葉を積み重ねることで「言葉自身の欲情」と同衾したいという欲望にとらわれているのだろうか。修辞から逃れられないでいるのだろうか。自分のことは耳くそほどにもわからないのだが、そう考えると、俳句の良さがわからない理由の一端がよくわかる、ような気がしてくる。
 ぼくは、ぼく自信を削ぎ落としていないのだ。

 ここに一句ある。

 古寺に斧こだまする寒さかな

 この句をひたすら玩味し、意味が剥落するまでそれを噛みつづけるとこの句はどうなってしまうのだろう。
 普通に読んでいけば、ここはたぶん、山深い古寺だろう。そこに立っていると、山の方から木を倒す斧の音が冬の清明な空気をとおしてこだましてくる。その音が、冬の寒さを増幅して、作者の無常感や寂寞感、虚無感、孤独感が横たわっている。
 あるいは反対に、冬の寒さとこだまを楽しんでいる作者の立ち姿も見えてきたりもするが、この句は、冬の寒さを古寺と斧のこだまで表現している、と言っていいだろう。
 それ以上の解釈は読者の領分になるだろう。
 では、次の句はどうだろう。

 一ところ残る青空吹雪くなり

 こういう矛盾した表現を対比させることが俳句としていいのはどうかはわからないし、俳句に慣れ親しんでいる人たちがこの句をどう評価するのか、見当もつかないが、ぼくがふだん慣れ親しんでいる現代詩の一行と考えるとなんとなくおもしろい一行だ。
 満天の雪空のなか、一ところだけ青空が残っている。しかしそこは見かけの青空とは裏腹に、猛烈に吹雪いている、という心象風景が読みとれる。逆転した風景がある。
 作者の屈折した心情とかみあった読者のみがこの句を鑑賞できそうな気もする。
 が、バルトは「たいせつなのは、言語に(見切りをつける)ことなのであり、たえず象徴が執念深く事物にとってかわろうとする働きを独特の旋回運動のなかにまきこんで、たえず表現へと導いてしまう言葉の独楽を停止させることなのである」と言っているから、こういう屈折した心象風景を読みとるのはまずいような気がする。
 句の優劣は別にして、この二句は共に作者がいて、読者がいて、作品が成り立っている、と普通の俳句ならそうなるはずである。
 オリジナリティを重視する人なら前句よりも後句のほうにオリジナリティを感じるかもしれない。意外性がオリジナリティと混同される場合もあるのだから。

 この二句は黒崎政男(哲学者)の著書『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』(哲学書房)に出てくる。
 この二句はBASIC(プログラミング言語の分類でコンピュータに行わせる作業の、手順を記述することに重きを置いた言語)での簡単なプログラムが、五七五を組み合わせて作句したものだそうだ。だから、今までの意味での作者はいない。作者はコンピュータのプログラマーで、それも、プログラマーの意図しない「偶然」が作者である。厳密に言えばこの句には「作者」がいない。
 オリジナリティを主張しようにも主張する作者が存在しないのだ。
 このことについて黒崎政男は次のように、至極まっとうなことを言っていて、はぐらかされてしまうのだが。
 「読み手はこれらの句の背後に
(9文字傍点:村山註)(意識するしないにかかわらず)虚無点としての作者(9文字傍点:村山註)を想定しており、そこから読みとってくるものは実は読み手自身の心情や思想にほかならないのだ。実作者の存在する俳句においても実は同じことが起こっている。その意味で、作者は読み手なのだ(傍点は作者)」
 もっともこの本は「人工知能」がテーマで、「知能というものはある存在者(人間やコンピュータ)そのものに内属している性質なのか(知能の実体論的把握)、それとも知能は他の存在者とのかかわりの場において成立する事態(知能の関係論的把握)なのだろうか」を考察していて、楽しい一冊だったが、ここでは触れない。

 コンピュータ、あるいはインターネットといえば、内田樹
(たつる)(大学教授・思想家)がロラン・バルトの「テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。(略)テクストの統一性はその起源ではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖わなければならない」(ロラン・バルト著『作者の死』という言葉を引用して、「このことはそのままインターネット・テクストに当てはめることができる」と言っている。(「寝ながら学べる構造主義」(文春新書))
 内田樹はこの本の中で、リナックスOSというオープンソースのOS(リーナス・トーバルズというフィンランド人が開発したOS。彼は著作権を設定せず、誰でも改造できるOSとして公開した。一方、ウィンドウズというOSを開発して、著作権を設定したビル・ゲイツは小さな国の国家予算なみの所得を得ている)を引き合いに出して、「作家やアーティストたちが、コピーライトを行使して得られる金銭的リターンよりも、自分のアイデアや創意工夫や知見が全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足を見出すようになる、という作品のあり方のほうに惹かれるものを感じる」と語っていて、それが、「快楽を求めたバルトの姿勢を受け継ぐ考え方のように思われる」と、オリジナリティなんてみみっちいことを言うんじゃないよ、と言っている。
 実際のところ、インターネット上に貼り付けられたテクストの場合、無法状態になっている感がある。
 内田樹の言っていることもわからないではない。ぼくなんか、無名で、たいした文章も書いていないので、「自分のアイデアや創意工夫や知見が全世界の人々に共有され享受される」ということなんかおこりえないだろうが、そうなったとしたら、それはそれで楽しいことだろう。
 ぼくに欠如していたものを誰かが補ってくれて、新たな展開が待っている、なんてことはすこしワクワクするが、一方で、欠如は欠如のままにしておけばいい、と「欠如」を負と見なさない生き方も大事じゃないか、とおもったりする。このへんが優柔不断なところだ。
 もっとも、古今東西、著名な哲学者や思想家の知見は引用に引用を重ねられ、全世界の人々に共有され享受されている。既存の思索に創意工夫が加えられ、新たな展開がくり返されている。

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 高知で詩誌『SPACE』を発行している著者の、1998年9月・21号から2008年5月・79号までの10年間のエッセイが収録されていました。サブタイトルに(50代に書いたこと)とあり、『SPACE』誌で発表した全てではないようですが、主要なエッセイのほとんどが載せられていると思います。著者は私より1年先輩のようであり、ベトナム戦争・70年安保・高度経済成長期・バブル期などを同じような年齢で関わってきたり眺めてきたりしたせいか、非常に共感できるエッセイばかりでした。特にモノゴトに対する見方や接し方が似ていて、ちょっと怖いほどです。

 それらの一つ一つを上げてもしょうがないので、ここでは私が最も興味をひいた部分を紹介してみました。最後の「ロブ=グリエが死んでから思いだしたことなど」の後半部分です。忘れていましたが、20年ほど前に〈BASIC〉で〈作句したもの〉や作詩したものが確かにありました。1980年代前半はBASICでなければコンピュータを動かせず、雑誌に載っているプログラムを必死に入力しては遊んでいたものですが、さすがに作詩プログラムまでは手が回りませんでした。
 それにしても〈一ところ残る青空吹雪くなり〉はよく出来ている句です。雪国での生活経験も多少はあるので分かるのですが、〈満天の雪空のなか、一ところだけ青空が残っている。しかしそこは見かけの青空とは裏腹に、猛烈に吹雪いている〉という場面も見ています。ですから、この作者≠ヘ凄い感性だなと思って読んだのです。それが〈プログラマーの意図しない「偶然」が作者である〉とは!

 そんな私の個人的な思いは別にして、このエッセイの中で惹かれるのは〈欠如は欠如のままにしておけばいい、と「欠如」を負と見なさない生き方も大事じゃないか、とおもったりする〉という部分です。これが著者の思考の根源を成しているように思い、共感しています。他にもモノゴトをどう考えるかを教えられる場面が多々ありました。今年一番のお薦めエッセイ集だと思っています。ご一読を!
(ご注文は、
http://homepage2.nifty.com/futabakoubou/ へ、と勝手に紹介します)




詩誌Void19号
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2008.10.30 東京都八王子市
松方俊氏ほか発行 500円

<目次>
『詩』
こんな、ほわいとほぅる…原田 道子 2    秋のエチュード……………飯島 研一 4
哀愁が降り積る……………森田タカ子 6    茗荷(みょうが)の花……浦田フミ子 8
花明り………………………小島 昭男 10
『小論』寄贈詩誌から……中田昭太郎 13
『詩』
秋の花火・漁火……………松方  俊 14    かぜがやってきた…………中田昭太郎 20
後記…森田タカ子・中田昭太郎・小島昭男・松方 俊 26




 
秋のエチュード/飯島研一

微塵の夢が原野を駆け抜け
あの日に吸い込まれる

歳月を忘れ
憎しみを友に
愛が崩れ
女と男の間隔は
変わらず
いびつな形のまま
今日の懐しさが
枯れながら
中空に漂い
水を欲しがっている

刀刃に光る叫びが
空しいか
土壇場の祈りを
ご破算にし
辻つまを合わせ
宥めるように
渋うちわで風を送る
生と死の隙間から
不意に痛覚が襲い
ごちた時間が
足元で割れ
胎児の笑い声が愛しい

未生を記憶する一瞬
鮮明な痕跡がそらぞらしく
風に乗り
秋の命がふるえている

 改めて〈エチュード〉とはどういう意味か調べてみますと、絵画の下絵や習作、練習曲、即興劇などと出てきました。この作品に〈エチュード〉と付けられたのは謙遜かもしれませんが、それよりも、力を抜いてリラックスして、という意味合いがあるのかもしれません。それを最終連に感じます。〈未生を記憶する〉ことは〈秋の命がふるえている〉ことと繋がっているのでしょう。いまだ生れないものを記憶する、まだ痕跡もないはずのものの痕跡を思うことに、秋の命がふるえていると採りました。決して習作や練習ではないものを感じた作品です。




山本護師作品CD『十字架と復活の音楽 2008年春
2008.8.15 録音・技術/三井一信 デザイン/山崎亜紀 非売品

<曲目>
チェロのための <十字架上の七つの音楽> 演奏 チェロ:山本護
1.序奏                      1:30
2.第一の言葉 『彼らを赦し給へ』         3:40
 「斯くて言ひ給ふ『父よ、後らを赦し給へ。その為す所を知らざればなり』。ルカ傳福音書23章34節
3.第二の言葉 『パラダイスに在るべし』      2:22
 「イエス言ひ給ふ『われ誠に汝に告ぐ、今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし。』ルカ傳福音書23章43節
4.第三の言葉 『視よ、なんぢの子なり』      2:40
 「イエスその母とその愛する弟子との近くに立てるを見て、母に言いたまふ『をんなよ、視よ、なんぢの子なり』。」ヨハネ傳福音書19章26節
5.第四の言葉 『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』3:24
 「三時にイエス大聲に『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と呼はり給ふ。之を釈けば、わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし、との意なり。」マルコ傳福音書15章34節
6.第五の言葉 『われ渇く』            3:52
 「この後イエス萬の事の終りたるを知りて=聖書の全うせられん為に=『われ渇く』と言ひたまふ。」ヨハネ傳福音書19章28節
7.第六の言葉 『事畢りぬ』            2:46
 「イエスその葡萄酒をうけて後いひ給ふ『事畢りぬ』遂に首をたれて霊をわたしたまふ。」ヨハネ傳福音書19章30節
8.第七の言葉 『わが霊を御手にゆだぬ』      4:20
 「イエス大聲に呼はりて言ひ給ふ『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』斯く言ひて息絶えたまふ。」ルカ傳福音書23章46節
9.地震                      2‥36
 「視よ、聖所の幕、上より下まで裂けて二つとなり、また地震ひ、磐さけ、墓ひらけて、眠りたる聖徒の屍體おほく活きかへり」マタイ傳福音書27章51節

鍵盤音楽のための <復活の日の前奏とフーガ> 演奏 チェンバロ:杉本周介
10.前奏                      1:57
11.フーガ                     7:17
 「息を吹きかけ言ひたまふ『聖霊を受けよ。汝ら誰の罪を赦すとも其の罪ゆるされ、誰の罪を留むるとも其の罪とどめらるべし』」ヨハネ傳福音書20章22節
                       total 37:15

批評「詩的芸術の世界化と音楽」 中村不二夫




 山本護の凄さは、チェリストとしての技術、作曲者としての創造性をはるかに越えて、メロディーそのものを世界の前線に押し出していっていることである。ときに前衛は技巧偏重の聴き手不在の独善に陥る危険がある。山本はそうしたことに慎重に対処し、けっして聴き手の耳を裏切らない。山本の前衛精神は、前衛が誇示する「不可能性の詩学」に結びつかない。不可能性の詩学の追究とは、聴き手不在の空疎な芸術至上をいう。一方山本の預言的、啓示的旋律は、われわれの深層に眠っていた真実を豊かに掘り起こす。

 キリスト者であれば、十字架・復活の再確認であり、非キリスト者であっても、その数奇なドラマをたどることで、そこに人間の原型を感受して驚愕せざるをえない。まさに、われわれがよりよく生きることは、十字架の苦悩、復活の喜びを通して人間の真実を直視することにほかならない。そして、山本のチェロはイエスの十字架と復活の物語を通して、希望/絶望、光/影、生/死、天/地、善/悪、聖/俗の二項を相関的に映し出す。人間には絶対的幸福も不幸もありえないように、つねに創造主によってそれら二項は相対化されているのである。それについて山本は、週報に「私たちは言い訳のように死を隠蔽し、その隠蔽がかえって生を衰弱させている。」「死の闇が浅くなると、生の光は確実に翳る。」(八ヶ岳伝道所・08年5月4日)と書いている。また山本護はCD『アプラクサス』(アルト・フルート、チェロ、ピアノのための)の解説の中で、その制作意図について「世の中にさざ波を立たせ、美と醜、愛と憎悪を解放させること」と延べている。
 山本の音楽は、あらゆる混沌に対しあえて答えを求めず、混沌を混沌のままに生きていくことを受容する。精神的疲労の渦中にある現代人にとって、混沌を混沌のまま素直に受容するという生き方は救いである。

 最後に山本護の言う「美と醜、愛と憎悪を解放させる」思想は、暮鳥の言うところの人類の全的解放ということに帰結する。人間は自分で犯した罪は自分で償うことができず、それは人間を越えた存在、神とその独り子イエスによって解決してもらうほかない。ここで山本が十字架・復活の音楽を通して主張しているのは、人類が原罪にめざめ、内面から主体的に変わっていくことの期待である。さらに、山本の音楽にはテロ・暴動に明け暮れる現在の世界状況が内在化されていることも忘れてはならない。私は現代詩人の一人として、こうした山本の社会性を共有していきたい。山本護の『十字架上の七つの言葉』は、神の器として、キリストの苦悩と復活を共同する喜びに満たされている。そして、われわれはそこでR・オットー(1869〜1937・ドイツ神学者)のいう、聖なるものの実感、すなわち「戦慄すべき秘儀」の実践に預かることができる。

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 日本基督教団八ヶ岳伝道所の牧師である山本護師が作曲したのチェロ曲が収録されたCDです。紹介したのは中村不二夫氏による批評「詩的芸術の世界化と音楽」の後半部分です。私は〈非キリスト者〉で、クラシックにも聖書にも疎いのですが、こうやって曲を聴きながら文章を書いていると、私の傲慢な汚れた文章でさえ洗われていくような感覚に捉われます。もちろん、洗われるというのは錯覚ですが、それでも〈われわれがよりよく生きることは〉何かを考えようと思うのですから不思議です。
 機会のある方はぜひ聴いてみてください。なお、<十字架上の七つの言葉>についての短い解説も載せられていましたので下記します。このCDの意図をよく伝えているのではないかと思います。

「<十字架上の七つの言葉>は、J.ハイドンの同名管弦楽曲(弦楽四十奏曲版、オラトリオ版もある)の楽曲構成を借用している。ハイドン作品は1780年、スペイン・カディスの聖堂から、四旬節(最終週か受難週)のための黙想曲の作曲依頼を受けて作られたもの。その時期には、聖書七箇所からキリスト最後の言葉が読まれ、黙想と音楽が融合する。チェロで奏される十字架の言葉は、カディス聖堂での七つの聖書箇所に準じつつ、小さな日本の会堂での黙想を想定したもの。言葉の意味性だけでなく、文語訳の韻文だからこそ染み入るキリストの味わいを重視している。」



   
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