きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.10.9 八方池




2008.11.15(土)


 来月開催される日本詩人クラブの国際交流・忘年会の往復ハガキ案内状が、昨日刷り上ってきました。今日はその発送作業を拙宅で一人で行いました。パソコンショップに行って宛名シールを買ってきて、宛名をプリントアウトとしてハガキに貼り付けて、ハガキを真ん中から折る…。作業工程としてはそんなもんで、たいしたことはありません。たいしたことがあったのは、その枚数です。950枚。

 午後2時から始めて、終わったのが8時。みっちり6時間も掛かってしまいました。詩人クラブの理事仲間は、大変だから事務所でみんなでやりましょう、と言ってくれています。しかし、事務所までの往復4〜5時間を考えると、一人でやった方がいいと思って、ハガキはそうしています。封書は一人でやると16時間ぐらい掛かってしまいますから、皆さんのご協力を仰ぎますが…。
 ま、950枚という数字はそういうことです。どうでもいい話で失礼!




たけやま渓子氏詩集
『あの日は雨が降っていたか』
     第6次ネプチューンシリーズXV
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2008.10.30 横浜市西区 油本氏方・横浜詩人会刊 1200円

<目次>
    *
あの日は雨が降っていたか 8        通信記号 10
終戦後 川崎駅に降り立って 13       持ち主はいないのに 16
やくざいしとは 20             一番電車に乗り遅れ 24
    *
大岡川 28                 耳なり 31
あるDVDより 36             九べえのこえ 40
なまずに似た魚 44
    *
こんなことをしました 48          慣れる 52
逃げて行く白い帽子 56           女は「ふふ…」 58
影法師 60                 せめてこれぐらいは 64
    *
わかりません 68              あの声は 71
まさか 74                 笑ってさよなら 76
今だったら 78               友が持たせてくれた鉢 80
振り出しに戻る夢 83
あとがき 86




 
あの日は雨が降っていたか

N先生のある文に
生徒たちを集団疎開に引率した日は
雨が降っていて
見送りの親たちとの別れが
一層わびしかったとあったそうだが
はたしてあの日は雨が降っていたか
さて同窓の皆に聞いてみると
覚えている人は誰もいないという
わたしの記憶では ついこの間までは
学校の校庭へ駆けつけてくれた母は
折からの雨に傘を高く翳し
必死に背伸びをしつつ人込みの中で
わたしを見送っていたようでもあった
が あれから半世紀以上もたってしまった今
あらためて人に問われると
まったく確信がなくなっていた
疎開中 ときどき思い出しては
泣きたくなるのを
黙って堪えたものであったが
いつのまにか傘の存在が
あったような
なかったような
いくら思い浮かべても 模糊としている

あの日は雨が降っていたか……

 5年ぶりの第4詩集です。最初の章は子供の頃を題材にしていて、紹介したのはタイトルポエムともなっている巻頭詩です。〈集団疎開〉という、人生の中でも大きな出来事だったはずの〈あの日は雨が降っていたか〉と自らに問いかけ、〈まったく確信がなくなってい〉る現在は、ある意味では幸いなのかもしれませんね。〈黙って堪えたもの〉が去ったからこそ忘れることができるのだと思います。
 あとがきでは〈因みにその後、あの日は雨であったとわかりました〉と書かれていて、疑問は解消したようです。しかし、次の「通信記号」といい、あの時代の学童たちは過酷だったと、いまさらながら思います。それを知らしめてくれた詩集でもあります。




詩誌『アル』38号
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2008.11.30 横浜市港南区
西村富枝氏発行 450円

<目次>
●特集 飾る・かざる
面を付ける…………江知 柿美…1      されど………………西村 富枝…3
誕生日………………平田せつ子…5      花……………………阿部はるみ…7
●短詩
春夏秋冬……………西村 富枝…9
●エッセイ
花に寄せて…………西村 富枝…13      記録「強制連行」…江知 柿美…15
●詩篇
白い街………………江知 柿美…19      究極のはなし………西村 富枝…23
編集後記……………西村・平田        表紙絵………………江知 柿美




 
面を付ける/江知柿美

まだ図面だけのマンションだった
買う前にモデルルームに通った
私の部屋と決めた部屋にはベランダがあって
行く度に飾り付けが変わっていた
白い椅子と赤い花
時には見事な観葉植物
時には洒落た大きな壷
実際はエアコンの置場で三台の屋外機を置くといっぱいになった
眺めは隣の窓 窓 窓ばかり
映画「裏窓」の風景だった
私は私の窓に不透明のシールを貼った
ベランダはもう見えない
売り手の巧みさに感心し私の愚かさにも感心した

学生の頃気に入っていた彼が突然眼鏡をかけて現れた
私の気持ちは一気に抜けてしまった
彼の整った目鼻立ち 彼の立ち姿が突然に崩れた
私は私の軽薄さにあきれた
でも気持ちを変えることは出来なかった

私は出来るだけ裸でいたいと願ってきた
素っぴんでいたいと思ってきた でも
本当は日ごと夜ごと面を変えてきたのかもしれない
マンションの売り手より巧みに
或る日 面の付け替えに失敗し友が去って行ったことがあった
「いつもの面と違う」
彼はそう呟いたようだった

最後には本物の面を付けていたい
どれだろう
探せるだろうか

 【特集=飾る・かざる】の中の1編です。今号の巻頭作品でもあります。「飾る・かざる」ことを「面を付ける」と捉えたところが面白いと思いました。〈飾り付け〉られた〈モデルルーム〉と〈実際はエアコンの置場で三台の屋外機を置くといっぱいになった〉〈ベランダ〉の落差、〈学生の頃気に入っていた彼〉の変貌に失望したという観点を、〈本当は日ごと夜ごと面を変えてきたのかもしれない〉と詠んだところに作者の詩人としての矜持を感じます。最終連の〈探せるだろうか〉がよく効いていて、現代人の不安も現していると思いました。




大津山国夫氏著
『武者小路実篤、新しき村の生誕』
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2008.10.14 東京都八王子市 武蔵野書房刊 3000円+税

<目次>
序 章 武者主義の輪郭……………………………5
     付1 参考文献一覧……………………14
     付2 新しき村の会則、精神、案内…20
第一章 創設の会員たち……………………………29
第二章 出発まで……………………………………53
第三章 日向へ………………………………………69
第四章 木城村大あざ石河内あざ城………………93
第五章 大正七年の会計……………………………114
第六章 大正八年
     一月〜五月………………………………130
     四月〜八月 内紛………………………152
     八月〜一二月……………………………185
     註…………………………………………220
第七章 大正九年
     二月〜四月………………………………223
     五月〜九月………………………………251
     九月〜一二月…………‥………………280
     註…………………………………………319
終 章 自立と共生…………………………………321
あとがき………………………………………………327




 
序章 武者主義の輪郭

 新しき村は武者小路実篤の提唱によって、大正七年一一月、日向、すなわち宮崎県の山村の一隅に生まれた。武者小路夫妻とも一六人(および子ども二人)が各地から参集、共生農園の創設に着手した。村内会員という(1)。武者小路は八年後、大正一四年に日向を去って村外会員になった。その後、昭和一四年に新しき村の主力は埼玉県毛呂山町に移り、平成一九年一二月現在、九〇年の年輪をきざんで埼玉に二〇人、日向の創立の地に四人の村内会員が共生農園の理想を模索している。どちらも財団法人として経済的に独立、完全な自活を達成した。現在の村外会員は三〇〇人前後という。

 私はこの小著で新しき村の歴史の発端にさかのぼって、武者小路が新しき村の創設を提唱した大正七年の春から九年末まで、あしかけ三年の生誕の経緯をできるだけ具体的にたどり、そのうぶ声のなかに新しき村の初心と体質をさぐりたいと願っている。
 武者小路は大正一四年末から後衛の村外会員にしりぞいたが、それでも終生、新しき村の代表者であり、財団法人新しき村の理事長であり、それ以上に会員たちの導きの星であった。将来はともかく、現在までの新しき村の歩みは武者主義共生農園の模索であり、創造であった。理想主義集団、理想主義運動としての新しき村の特色は、まずこの武者主義という指導理念にあった。武者主義という表現は、彼が弱冠二四歳のとき、明治四一年五月に書いた日記の一節から借りた。

  六十迄健全でゐたなら必ず何かして見せる。何かして見
  せると云ふのは、一つの武者主義をつくって見せると云
  ふ事である。

 彼のいう武者主義は六〇歳を待たずして結実し、早くも三〇歳前後から独創的な影響力を発揮した。明治四三年、二六歳のときに文学同人雑誌「白樺」を志賀直哉らと創刊したが、その同人たちはいうまでもなく、後続の岸田劉生や千家元麿や芥川龍之介なども、各地に散在する「白樺」の若い読者たちも、彼の武者主義に力強く鼓舞された。新しき村の歴史においても、少なくとも彼の生存中は武者主義はその不動の指標であり、バックボーンであった。

 註(1)新しき村のなかで生活する人を村内会員(大正期には第一種会員)といい、新しき村の外から物心両面の支援をつづける人を村外会員(大正期には第二種会員)といった。


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 現在まで〈九〇年の年輪をきざんで〉いる武者小路実篤の「新しき村」の〈大正七年の春から九年末まで、あしかけ三年の生誕の経緯〉を論考した大冊です。著者は本著のほかにも『武者小路実篤論』(1974年・東京大学出版会)、『武者小路実篤研究』(1997年・明治書院)や編著、共編著が多数あり、武者小路実篤研究の第一人者と云ってよいでしょう。

 紹介したのは序章の冒頭部分ですが、このあとに武者小路実篤のおいたちや思想が続き、序章だけでも武者小路の〈輪郭〉をかなり把握することができます。本文で圧巻なのは3年間の月別の〈会計〉です。羅列された数字を読み解く著者の視線は鋭く、かつ「新しき村」の人たちを慈しんで見ているのが解ります。私は武者小路の理想主義には追いていけないものを漠然と感じていましたが、それがかなり曲解した見方だったことも解りました。理想主義の限界はあるものの、その思想には学ぶべきことが多いと今は感じています。
 武者小路実篤研究には無くてはならない論考だと思います。それ以上に思想を理解するとはどういうことか、それを教えられた好著です。ご一読をお薦めします。



   
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