きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.10.9 八方池 |
2008.11.16(日)
ご無沙汰しています(^^; 今日は正真正銘の11月16日です。ここのところ日記の更新をサボっていました。いただいた本の紹介を優先させましたし、日記の大部分は日本詩人クラブHPの内容と重複しますから、そちらを見ていただくようにトップページで案内させてもらっています。
しかし、今日はこれだけは書いておかなくてはいけないと思って、久しぶりの日記更新となった次第です。
今日は午後から日本詩人クラブの第1回役員選挙管理委員会が開催されました。現理事会が来年5月で任期切れとなりますので、その後の理事会を構成するために会員による投票が来年1月に行われます。その選挙事務と管理をする委員が7名選ばれまして、その第1回の委員会だったという次第です。
こちらは委員長も書記もスンナリ決まって、特に問題はありませんでした。
問題があったのは神奈川県立図書館です。いつものように早めに事務所に着いて、郵便物の整理をしていましたら、中に1枚の葉書がありました。神奈川県立図書館からのもので、いままで日本詩人クラブからは『詩界』という雑誌を送ってもらっていたが、今後は送ってよこすな、というものでした。理由は、書庫が満杯だから。
ちょっとムッとしましたね。図書が満杯になるのは図書館の宿命。そのために各地の図書館はデジタル化を進めたり、在庫期限が切れた図書は一般に譲ったりして苦労を重ねて、工夫しています。それを1枚の葉書で、もう送るな、とは! こちらは善意で送っているつもりですから、こんな対応はないよな!と真剣に思いましたね。
売れる本は図書館に行かなくても古書店でもネットでも入手できます。しかし、全国組織の機関誌などは絶対と言っていいくらい手に入りません。図書館にこそ置いてもらって、研究者の便に供すべきです。神奈川県立図書館だから全国組織は関係がないと仮に思っているとしたら、それは大きな間違いです。神奈川の図書館だからこそ、神奈川県民が全国組織でどういう活動をしているのか知る必要があるのではないでしょうか。
これはまったく私の個人的な思い込みですが、記憶では県立図書館は指定管理者制になったかと思います。他の分野でも各地で進められていますが、県職員が運営するのではなく、業者に任せて運営させるというものです。小泉政権時代から行政のスリム化の名のもとに進められてきました。図書館を株式会社が運営するということに違和感を覚えていましたけど、こんな形で現れるのかと思いました。神奈川県民として恥ずかしい限りです。
○上坂高生氏著『ベレー帽の行方』 |
2008.8.15 東京都八王子市 武蔵野書房刊 2000円+税 |
<目次>
眼………………………………………………………5
骨折……………………………………………………43
過日……………………………………………………99
八日間…………………………………………………149
ベレー帽の行方――八幡政男とその周辺――……207
あとがき………………………………………………258
あとがき
本書の作品の初出は次のとおりです。枚数は四百宇詰原稿用紙によります。
一、眼 「碑」(いしぶみ)84号(二〇〇五年四月三十日発行)51枚。
二、骨折 「碑」87号(二〇〇六年十月三十日発行)80枚。
三、過日 「碑」88号(二〇〇七年四月三十日発行)69枚。
四、八日間 「碑」89号(二〇〇七年十月三十日発行)74枚。
五、ベレー帽の行方――八幡政男とその周辺――(懐中のベレー帽、改題)「碑」90号(二〇〇八年四月三十日発行)74枚。
文芸同人誌「碑」は、戦時中芥川賞候補になった人たちが、今度こそは賞を取る、という気概を持って集まり、昭和三十七年に創刊されたものです。若い人たちも何人か加わりました。日本の近代文学を研究されている方たちは、「碑」を見て、感銘を受ける、と言われます。この雑誌の表紙裏に「物故同人とその主要作品」が載っていて判るのです。もっとも掲載されている人は最期まで所属していた人に限ります。戦前の流行作家であった間宮茂輔氏その他、創刊時の方の名まえで消えているのは多いのです。直木賞を得た藤井重夫氏は、受賞すると、さっさと「碑」を辞めたので、載っていません。
八幡政男氏のことを中心に描いた「ベレー帽の行方」は、こうした「碑」の事柄に触れたものです。
「過日」という作品は、これによって、日本放送協会のラジオ深夜便「心の時代」への出演となりました。奇妙なことになったものです。
武蔵野書房の福田信夫さんが図書新聞の二〇〇七年九月十五日号の同人誌時評で取りあげたのが発端になります。評の題名は、上坂高生の絶品の私小説「過日」とあり、しかも下に空白をかなり取っての横書きなのだから、目につきます。
評の締め括りに、『上坂は、文芸誌「碑」の「編集後記」ならぬ「あとがき」で「一年前、右肘の骨折をしてからは、医師からは文字を書くことを禁じられ』ているが、『痺れの消えない指で鉛筆を握って書いた』としています。
この図書新聞の一文に関心を持ったのがNHKのディレクターの中野正之さんでした。中野さんは福田さんに連絡をとり、福田さんが私あてファックスを送ってきたのです。
「心の時代」というのは、以前は「宗教の時間」とかいっていました。未明、目が醒めることがあっても、アナウンサーがこの時間を告げると、スイッチを切ったものです。偉い坊さんや神父さんや宗教関係の大学の先生方の話は、もう結構なのです。「心の時代」と名を変えてからは、説教一辺倒ではなくなったので、たまに聞くことがありました。
しかし、これはお断わり申しあげるほかはない、と思いました。地味な物書きが、全国放送の場面で、得得と話をしていていいものか、と疑問を感じてしまうのです。
それにインタビューを受けることは苦手です。文章を書くのとは、ひどく違うことを知っているのです。若い頃、三千円くらいの謝礼で講演をたのまれたことがありますが、もう思い出したくないものです。喋っていて、ふと他の事が頭に浮ぶと、そちらへ話が移ってしまいます。あちこちに話が飛んでしまい、ふと気がついて、「どこで脱線したのですか」と前の席の人に尋ねるありさまでした。講演をまとめる役の人は困りはて、まとめの文を依頼してくる、という調子です。いちおう要旨は書いて行くものの、どこかへ行ってしまいます。もともと論理性が無く、支離滅裂なのです。これだから「評論家」にはなれない、批評はできない、と観念しているのです。
断わるつもりでファックスを読んでると、半ばすぎ、「コトワラナイデ」と片仮名で書いてあるのに出っくわしました。え、と思いました。心の内を覗かれているようで、しばらくその文字を凝視していました。
改めて、このNHKのディレクターさんは、凄い人ではないか、と思いました。あらゆる所に神経を配っているのではないか。でなければ、こんな方向に目をつけるはずがないのです。その証拠に、取りあげるのが大変だったのではないでしょうか。
「心の時代」の計画に当っては、ディレクター仲間で検討しあうそうですが、十二月中旬の提案が一月に、さらに一月は正月番組で色色あるので再提案してください、となった、と言います。体のよい拒否ではありませんか。「力が無くて申しわけありませんでした」という葉書が届いてきました。よし、それなら頑張ってやるぞ、と猛然と心が燃えあがってきました。この人は、簡単に引き下がる人ではない、と思ったのです。
中野さんから一月九日はどうか、という電話連絡がありました。放送日が決定したので、録音をしに行くと言います。
中野さんは、紅白歌合戦の総合司会を勤めていたことがあるとか。七十四歳と言います。「心の時代」のディレクターの中では二番めの年配とか。
ラジオ深夜便のアナウンサーの方たちは、定年退職者のようで、ぎりぎりの予算で運営されていると思われます。
当日、中野さんは三時間あまり録音をしました。あてもないことを喋るので録音に時間がかかってしまいます。しかも後日、結論で話す事柄を失念していたことがあり、連絡しました。かくて都合三回、足を運んでもらったことになります。録音は四時間ちかくになります。
二月一日の午前四時から五時の間に、放送されました。四時間が四十五分ほどに、見事に編成されていました。大学教授や高僧や神父さんなど、話し馴れた人ではない人を探している、と中野さんは言っていましたが、そのとおりになっていました。それだけに、たいへんな作業だったと思われます。
二月一日の午前四時台といえば、外はまっ暗、真夜中です。ちょうど眠くなる頃、聴いている人なんていないだろうと高を括っていたら、夜が明けると同時に電話が二本三本とかかってきました。感動した、涙がこぼれた、との言葉がくるのには、びっくりしました。そして、どうして私の家が判るのか、と首を傾けてしまいます。この日の放送の題名は「八十にして書くを止めず」とつけられていました。
放送があった翌日、録音テープが届きました。これまで放送に出てテープを貰ったことは一度も無く、そういうものだ、と思っていました。有難い、と思いました。
二月三日、屋根も庭も道路も白い色に包まれました。この冬初めてのものでした。中野さんから電話がありました。雪が降りましたね、とその声は録音時の厳しさとは違い、すこぶる優しく親しいものでした。私の話は、山陰地方の雪の朝から始まっているのです。
何日か経って、書店で「深夜便」の三月号というのを立ち読みしました。編集後記に「心の時代」のことに触れ、担当ディレクターはテープが完成すると、この上ない喜びを得る、というようなことが記されていました。
中野さん、ご苦労さまでした、ありがとうございました、と申しあげます。
中野さんは、文芸同人誌の数はいくつあるのか、とか、費用はどうなっているのか、とか、さまざまな内容についても質問をしています。深夜便を聴いた人には、参考になったのではないでしょうか。あるいは、中野さんの狙いは、ここにあったのではないか、という気もします。
雑誌の注文がかなりありました。けれど残部が一冊も無くて、申しわけないことをしました。久喜市、吹田市、東京都、北海道等の方には図書館に行って下さるよう返事を差し上げました。袋井市の方は、これが縁で私の著作を何冊も借りて読んだ、とのこと、驚きと同時に感謝の他ありませんでした。
「過日」は、しかし、事実のみを正確に書くことを要求される「自分史」のようなものではありません。あくまでも「小説」なのです。「眼」にしても「骨折」にしても、同じことです。「私」で書くから「私小説」です。
医療のことを書くのは容易ではありません。その進歩は目覚ましく、たちまち過去になってしまいます。けれど、そこにいる人間は変わりはありません。病室の人間模様は興味津津です。医師の中には、患者が経験したことを書くのを嫌がられる方がいます。片方では、横浜赤十字病院でカテーテル・アブレーションの手術を受けた時の主治医の先生のように、どんどん書いて下さい、と激励をされる方もいます。患者の視線は、医学界のためにも重要なこと、とおっしゃるのです。
最後の作品「ベレー帽の行方」は、ノンフィクションです。全部実名なので、差障りが無いか、と言われることがあります。否定はできません。間違いを指摘されれば、早速に訂正させていただいています。八幡さんが亡くなって「碑」創刊当時からの人は皆無になりました。
本書の出版に当っては、福田信夫氏にお世話になりました。厚く感謝を申しあげます。
なお武蔵野書房による私の出版物には、いっさい帯がありませんので、ご諒承のほど、お願い致します。
二〇〇八年七月十四日 上坂高生(うえさかたかお)
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本著の内容を紹介するのに最適な「あとがき」がありましたので、全文を紹介しました。この3年ほどに『碑』に書かれた小説であることが解ります。なかでも「過日」と「ベレー帽の行方」は佳品で、全文を転載してみたくなったほどです。
この「あとがき」は紹介に最適なだけでなく、〈ラジオ深夜便「心の時代」〉についても面白く拝読できました。〈ディレクター〉の人柄も伝わってきますが、それ以上に著者の心理が描けていて、これだけでも良質なエッセイと云えるでしょう。上坂文学はそれほど多く読んでいるわけではありませんが、誠実な文体が魅力で、純文学好きにはたまらないでしょうね。お薦めします。
○森當氏創作集『同行二人』 |
2008.10.25
東京都八王子市 武蔵野書房刊 1800円+税 |
<目次>
同行二人………………………………………………………………5
旅立ち…………………………………………………………………77
青春から成熟へ――森當氏の小説を読む―― 磯目健二……205
あとがき……………………………………………………………220
(一)古稀
耕介は農業を始めてから五十数年間、農業日記をつけてきました。一年一冊だから五十冊以上あるわけですが、途中から三年日記や五年日記をつけだしたから、そんなにはありません。
三年ほど前に長年寝起きしてきた母屋の二階から、両親が住んでいた離れの小屋に移りました。年とともに階段の上り下りが足にこたえるようになったからです。その時、少しばかりたまっていた書籍や雑誌などと一緒に日記も下におろし、年代別に整理してみたら、手帳ほどの日記帳や、大学ノートに書かれている年もありました。
その中に「大正十年十一月十六日起稿」と書かれたぼろぼろのノートが出てきました。表紙は薄みどりの画用紙ほどの厚さで、真ん中に洋服を着たカラフルな兎が二羽立っています。
破らないように注意して表紙をめくってみると、無罫のノートに日付けがあり、ペン書きで文字が並んでいます。これは耕介の文字のようでした。
裏表紙を見ますと、
「電子流集理論」(構成要論より)
と筆で書かれ、その下に父の名が書いてあります。これを見て思い出しました。
耕介が併設中学3年生の頃、古い書棚の隅に、まだほとんど白紙のままのこのノートを見つけて、父にこれを雑記帳にくれるように頼んだことがありました。すでに六十年近くにもなる前の話です。
「これは、おれが若い頃に、名古屋ヘアインシュタイン博士の講演を聞きに行って、そのときの講演のあらすじを書いたものだ」
父にしてはめずらしく、照れた表情になって言いました。耕介にはアインシュタインと言えば、あの難しい「相対性理論」という言葉しか思い浮かびませんでした。父は表紙をめくってそこに書かれた数頁ほどの文字を見ていましたが、
「まあ、いいだろう」
と、しぶしぶ、諦めたように言ってノートを渡してくれたのです。
表紙をめくりますと、その一頁目には、
「一、電子論」(大正十年九月三日吾が大題は電子論の構成要点より磁気論廣應理への考究に入る)
と書かれ、つづいて「電子流集論」という項目がありました。
「すべての物体を回転すればその中心へ、原子中に包まるる電子は(両極を有する)回転速度に正比例して、中心へ流進するものである。」
「今大なる宇宙について考察するに、太陽より放つところの光は実に大なるものであらねばならない。全宇宙に散在するところの星が、その光線を受けて反射した時、然も数限りなき多数の星があるとしたならば、宇宙はために明るくなりて、夜昼の差は余り分明ではないのである。然るにそれは明らかに昼夜の差を有している事である。ここに一つの問題は起こるのである。」
よく分かりませんでしたが、こんな文章が四頁ばかり書かれて、後は白紙のままになっていました。
耕介は、このノートをしばらくそのまま持っていましたが、何かのときに思いついて、百科事典で「アインシュタイン」を調べたことがあります。その中に、
「1921年石原鈍らの働きで、改造社が彼を日本に招待し、その来日途上の船上でノーベル物理学賞の受賞決定を知らされた。」
という説明がありました。一九二一年は大正十年です。父が名古屋にアインシュタイン博士の講演を聞きに行ったと話していたのは、この時のことかもしれません。父にとって、このぼろぼろになったノートは、けっして手放したくない、青春の貴重な記念の品であったにちがいありませんでした。
耕介は、そのときの父に対する尊敬の念と、父の青春への好奇心に駆られたことを思い出しました。
その父も亡くなってすでに十数年が経ち、父が亡くなって七年後に母が亡くなりました。二人は、母屋から渡り廊下ひとつ離れた古い隠居所に、二十年近く暮らしていました。
今度、耕介たちはこの離れに少し手を加えて住むことにしたわけです。父は還暦過ぎてからはほとんど農業に手を出さず、集落の老人クラブの役員や、各地のお寺参りに母と一緒に出かけていきました。仕事好きな母は、暇があれば耕介たちの仕事を手伝ってくれました。
いつのことだったか、母が桃の袋掛けを手伝ってくれた事があります。次の朝、
「お父さん、桃の木の下が真っ白だよ」
妻が耕介に小声で言いました。前の日に母がかけた袋が、夕ベの風でほとんど落ちてしまっていたのです。
「指の力が無くなったのかなあ」
母も気がついていたらしく、肩をおとして桃の木の下へ入り、袋を拾い集めていました。それからは草取りが母の仕事でした。
「電子流集理論」と書かれた父の古いノートを見て、懐かしい人に会えたようで胸が熱くなりました。考えてみれば大正十年代、アインシュタイン博士の講演を聞き、宇宙や物理学に壮大な夢をいだいていたらしい、父の青春時代を知るすべは、もう、ほとんどありません。同時に耕介たちが夢中で走ってきた年月の長さと速さを思うと、ノートを手にしたまま呆然としてしまいました。
「お父さん、除袋だけ早くやってしまわんと日が暮れるがね」
妻の由紀が前の庭から呼んでいます。袋掛けした桃が熟する前にその袋を取り除くと、色と味がよくなるのです。その適期がこの一日、二日でした。
五年ほど前に腰を痛めた由紀は農作業がつらそうですが、耕介にはなかなか厳しく言いつけます。息子たち夫婦が主な作業はやりますが、耕介たちは、かっての母のように軽作業を手伝っています。
「おれらがやらなきゃ、仕事なんかまわるもんか」
集落のかっての「はみだし会」の仲間は実によく働きます。
「もう一寸のんびりできんかやあ」
と、耕介一人が言っているだけで、
「働けるうちが花だぞ」
と相手にもしてもらえないのです。
「おれの親父さんは六十で百姓仕事やめにしたが、もう十年も働き過ぎだ」
耕介がしきりに抗弁しますが、
「何をくだらないことを言って」
由紀も頭から問題にしていません。
耕介は父が写したアインシュタイン博士の「電子流集理論」のノートを大事に書棚の奥にしまいこむと、やおら立ち上がって庭に出ました。軽トラックの助手席には由紀が乗って待っています。彼は地下タビをはき、剪定鋏を腰につけると運転席に乗り込み、桃畑へ急ぎました。桃の木の横に車を止め、畑に下り立って前を見ますと、桃畑の端に「狗尾草(えのころぐさ)」が群がって生え、今年も柔らかな薄みどりの穂を出し始めていました。耕介はふと由紀の顔を盗み見しました。
「狗尾草」、別名「猫じゃらし」と呼ばれるこの雑草には、若い耕介たちの思い出がありました。しかし、彼女はもうすでに桃の袋を取り始めています。耕介の昔の感傷など無関係のようでありました。
[人生七十いま稀にあらず、起って輝くべし]と誰かが言っていました。頑張らなければなりません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
紹介したのはタイトルでもある「同行二人」の第1章にあたる部分です。「同行二人」はどうぎょうににん≠ニ読み、巡礼者の隣にはいつでも弘法大師がいて助けてくれる、という意味だそうです。紹介した最後に〈「狗尾草」、別名「猫じゃらし」と呼ばれるこの雑草には、若い耕介たちの思い出がありました〉とありますが、その話は作品の後半で出てきます。とても良い場面なのですがここでは割愛します。ぜひお求めになって読んでみてください。「同行二人」は最後のクライマックスで出てきますが、これも同様に割愛です。
「旅立ち」も佳い作品だと思います。30年前に単行本に入れた作品を改めて改題、増補したそうですから、著者の思い入れが相当強いようです。それだけに印象深い作品です。描かれた世界は20代の青春、そして「同行二人」は70代になってから。実に半世紀をこの2編で描いています。お薦めの1冊です。
○栗田藤平氏著 『おお、白銀のチロル 竹久夢二の米欧無銭旅行』 |
2008.10.25 東京都八王子市 武蔵野書房刊 1700円+税 |
<目次>
I「長崎十二景」の旅
1、九州へ……………………………………10 2、恋多き人生………………………………13
3、無頼派……………………………………16 4、精霊流し…………………………………19
5、異国情緒…………………………………22 6、長崎十二景…‥…………………‥……26
7、花街探訪…………………………………29 8、彦乃入院………………………‥………33
9、茂木行楽…………………………………36 10、アイタイ…………………………………39
11、天国と地獄………………………………43 12、旅愁………………………………………46
13、別離………………………………………50 14、女体と鉄塊………………………………54
U 外遊スケッチ抄
サンフランシスコの駄々……………………60 ポイントロボスの淡い恋……………………62
ロサンゼルス 1、三流ホテルに住んで…64 ロサンゼルス 2、余計者の群れ…………66
女 1、美少女………………………………68 女 2、成熟…………………………………70
女 3、石の眼………………………………72 女 4、ポーズ………………………………73
女 5、すみれの花…………………………76 女 6、モーパッサンを読む娼婦…………77
女 7、画家と文学…………………………80 航海 1、歌う少女…………………………81
航海 2、さらばアメリカ!………………83 航海 3、ショパンを弾く…………………85
航海 4、着物に喝采…………‥…………87 ベルリン 1、追われるユダヤ人…………88
ベルリン 2、夢二個展とドイツ紙評……91 ベルリン 3、老人とカフェ………………94
ベルリン 4、カップル……………………96 ベルリン 5、これで好いのである………97
プラハのアングラ……………………………99 パリ 1、いかり肩の女……………………102
パリ 2、モンマルトルの物売り…………104. パリ 3、洗濯船に近く……………………106
パリ 4、マッチ売りの老女………………107. パリ 5、名物ブキニスト…………………109
パリ 6、ふらんすパン……………………111. パリ 7、自画像……………………………113
ジュネーヴ 1、レマン湖のほとり………115. ジュネーヴ 2、水鳥………………………117
ジュネーヴ 3、オリエント急行…………119. チロルの旅 1、妖精………………………121
チロルの旅 2、山近く村賑やかなり……122. チロルの旅 3、合掌するマリア像………125
チロルの旅 4、檀一雄のチロル礼讃……126. ウィーン 1、電車と女……………………128
ウィーン 2、火花…………………………130. ウィーン 3、やもめカフェ………………132
ウィーン 4、隣は何を……………………133. 永遠のさすらい人……………………………135
主な参考文献…………………………………138
あとがき………………………………………139. 初出……………‥……………………………144
チロルの旅 2、山近く村賑やかなり
夢二は六日までインスブルックの街を歩きつづける。『夢二ヨーロッパ素描帖』(青木正美編)を見ると外遊の後半期、名もなき山を背景にした街のスケッチが十五、六枚ある。山は空を狭め、家々の背戸に迫り、その遠近感が絶妙である。どの画にも画題がない。稀に日付だけある。私は日付と夢二日記を照合する。この画の左下隅に「4 oct 32」とある。よく見るとoct(十月)を斜線で消し、薄くNOV(十一月)となっている。これが日記のインスブルックと一致する。私は思わず「これだ」と声を上げる。空気が透明なせいか、山が迫り、また遠のく。踊っているようだ。夢二はチロルに酔っている。それを日記で裏づけよう。
「ホテルのレストランで食事。八ツほどの娘を画いてやる。チョコレートをやる。握手してダンケ(ありがとう)、ピアノをひけと私にいふ。
「私は弾けないのだ、子供よ、あの人にたのんでごらん」
私はエシャクした。その女は笑つた。つれの老人が立つて弾いた。私も子供も手を拍つた。子供は私がさつきやつたシコラを一つ老人に与へた。
私はこのレストランと少女と老人を忘れないだらう。別れるとき、私は女の子の手にキスをした。これは自然で、私は生れてはじめて女の手にキスをしたのだ。こういう幸福がまだ私にあつた」
周辺は三千メートル級のチロルの山波がひろがり、欧州の屋根といわれる西のスイスの四千メートル級の山地につづく。夢二は日記にメモする。
「インスブルック近くのHALLといふ駅はよい。山近く村賑やかなり。またその上三つほど上の町の城は小諸(こもろ)の如し」
「道の端にマリアの堂やキリストの像が建っている。マリアはオデコで肥って肉体的だ。キリストは憔悴して宗教的な顔をしている」
博物館のうゐな娘≠フオデコは広い。マリアのようにすでに成熟した女の骨格を感じさせる。夢二はこの画で清純な少女と、恋多く多情で魅惑的なウィーン女を、一つに融合させたのではないか。
夢二は生涯、オンナを描きつづけた。年齢は問わぬ。少女は必ず熱女になるのである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「I『長崎十二景』の旅」は『西日本新聞』に連載したもの、「U 外遊スケッチ抄」は北九州市の「夢二を語る会」の会報に連載したものだそうです。いずれも夢二研究ではあまり触れなれていない部分ではないでしょうか。口絵には夢二の「長崎十二景」の12枚がカラーで印刷され、随所に夢二のスケッチが載せられている、夢二ファンなら垂涎の書と云えるでしょう。ここでは本著タイトルに基づき「外遊スケッチ抄」から「チロルの旅 2、山近く村賑やかなり」を紹介してみました。無銭旅行を続け、悲惨な日々の米欧滞在の中ではホッと心温まる場面でもあります。最後の〈少女は必ず熱女になるのである〉は著者の言葉ですが、夢二に打ち込んだ著者ならではの、夢二の心情の代弁と思います。
夢二研究者のみならず、一般の夢二ファンにもお薦めの1冊です。
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