きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2009.11.3 足柄峠より箱根・大涌谷を臨んで |
2009.11.2(月)
来年9月に開催される、日本ペンクラブ主催「国際ペン東京大会2010」に向けて、第3回の詩部会打ち合わせをやることにしました。原案を作って事務局に送信しましたから、近いうちにEメールをお持ちの詩人会員にはEメールで、そうでない方にはFaxか葉書で開催通知が届くと思います。内容は下記の通りです。詩人会員の皆さまは、是非ご都合をつけておいでください。
日 時 2009年11月19日(木) 午後2時〜4時
場 所 日本ペンクラブ会館 3F大会議室
議 題 アンソロジー草稿案ページの摺り合わせ
第2回打ち合わせで主に以下のことが決定しています。
・アンソロジーの版型はA4縦
・参加者は見開き2ページを使用し、片側に日本語、もう片側に英語または仏語の翻訳を載せる。
・英語または仏語は横書きであるが、日本語の横書き・縦書きは参加者判断。
・著者紹介部分の横書き・縦書きも参加者判断。
これらに基づいて、今回は、皆様が現在までにお作りになった草稿を見せ合って、よりよい完成原稿の参考に供したいと思います。そこからアンソロジー全体への回帰も視野に入れたいと思います。
お願い 当日は、現在までの草稿のコピーを30部ほどご用意ください。打ち合わせ前にお互いに配布し合いたいと思います。
○村山砂由美氏詩集『人間讃歌』 |
2009.10.15 三重県四日市市 私家版 1800円 |
<目次>
31W4d
人間讃歌 6 31W4d(31週4日目) 8
出産 12 抜け殻 14 寝息 16
まなざし 18 我が子 20 抱擁 24
胎内記憶 26 卒園式 28 詩を作ること 30
今 34
鎮魂歌
回想録(祭りin高知) 38 鎮魂歌 40 介護する前のこと1 42
介護する前のこと2 44 介護する前のこと3 46 介護する前のこと4 48
マイ ウェディング 50 母の最期 52 幻想 54
父の贈り物 56 祖父の手紙 58
朗読する時
撫(な)でる 62. 朗読する時 64 試験監督の時に見た夢 66
合間のコーヒー 68 ぼんやりとした一日 70 買えない物 72
抜歯 74 生命(いのち)の故郷(ふるさと) 78
大樹林 82 異国 84 人と人 86
歳(とし)を重ねるということは 90
跋文…津坂治男 94
あとがき 96
人間讃歌
右隣のFさんは双子を産む予定で臨月直前
すでに腹周りは一メートルある
お腹には男女一人ずついるらしい
チョコレートが嫌いという変わった人だ
入り口近くのAさんは
安静を強いられて入院生活三ヶ月目に入る
やっぱり双子のお母さんになるという
先に退院して行ったOさんは
一歳七ヶ月の女の子のお母さんで
今度は男の子を一週間以内に産むだろう
二世帯住宅に住んでいて明るい性格の人だ
退院前に知り合った
美月ちゃんのお母さんは男の子を産んだ後
なんと檀那さんは牧師さんだそうな
最近の外国人居住者たちには
無くてはならぬ重要な務めをしているそう
ミサのピアノを弾く朗らかな奥さんだ
皆
偶然産院の同室となり
一時を共に過ごした
見知らぬ者同士
でも
我が子を産む♀閧「は一つ
卵をかかえた雌鶏たちの集団の夜は
語らい
今日も更けて行く
詩作を始めて9年という著者の第1詩集です。ご出版おめでとうございます。ここではタイトルポエムで、かつ巻頭作品の「人間讃歌」を紹介してみました。〈Fさん〉、〈Aさん〉、〈Oさん〉、そして〈美月ちゃんのお母さん〉という女性たちの顔が見えるようです。最終部の〈卵をかかえた雌鶏たちの集団の夜は/語らい/今日も更けて行く〉というフレーズが佳いですね。母親たちの自信が伝わってくるように感じました。今後のご活躍を祈念しています。
○一人誌『粋青』59号 |
2009.11
大阪府岸和田市 粋青舎・後山光行氏発行 非売品 |
<目次>
詩
○―――自由 (9) ○―――買い物(10) ○――つわぶき(11)
○――奇妙な話(12) ○―古本屋にて(14)
スケッチ (8)(17)
エッセイ
●中 正敏詩論 孤高に自由を編み込む詩人(7)(4)
●絵筆の洗い水【35】(16)
●言い訳を少し (18)
●舞台になった石見【49】 詩人 日塔聡子(20)
表紙絵:紫陽花(紅葉)08年12月
買い物
あなたが小さかった頃
休日になると 手をひいて
買い物に行ったものだ
私が年老いて
あなたが 時間をもてあます私を
買い物に連れて行ってくれる
見慣れた風景だけれど
年月だけが音も無く過ぎている
〈あなた〉はきっと娘さんなのでしょう。もちろん息子さんでも違和感はありませんけど、ここは優しい娘さんに〈手をひいて〉もらって(そんなことは書いてありませんが)、〈年老い〉た〈私〉が〈買い物に連れて行って〉もらうという図が好ましいですね。私の勝手な思い込みですけど。でも、アトさん、ちょっと早いんじゃない!? と、同年代からチャチャを入れておきます(^^;
○評論試論集『詩論の欠片』2号 |
2009.11
大阪府岸和田市 粋青舎・後山光行氏発行 非売品 |
<目次>
○「光と豚の詩人」宗教詩人としての山村暮鳥論 3
○『おれとしておれなりに死んでいくことに満足する』「詩 死の淵」より 高見順論の試み 17
○詩人・八木重吉 詩に見る悲しみの本質 27
○伊東静雄・詩の背景 34
あとがき
「光と豚の詩人」 宗教詩人としての山村暮鳥論
詩人が詩を書き続けている。その根源となるものが何であるのか知る術もないのだが、この世の人間が必ずどこかで出会うであろう宗教について考える時、特に詩人が宗教について考える時、そこに非常に興味のある詩人の思想があり、行動があるように思われる。日本の文学(詩)の世界では、遠い万葉の時代から、宗教との関りが明確ではないし、仏教の伝来後も、特に宗教との関りは強くはなかったように思える。しかし西洋においてはキリスト教の発達と共に文化が発達している事実を見つけるのだが、そのキリスト教が伝来し、二百年ほど過ぎた近代に、ひとりの詩人がその中に自分自身を置きながら詩を書いていたことに、詩人(人間)の中にある「詩」というものと「宗教」とのかかわりを改めて見直してみようと思うのである。
山村暮鳥は十二歳の頃は寺の住職に漢籍を学んでいたにもかかわらず十八歳の頃になると、十余キロメートルの道を聖マッテア教会(前橋)の英語夜学校にまで通いはじめている。その後、十八歳の六月、クリスチャンとしての洗礼を受けたのである。英語夜学校に通い始めてキリスト教に接したのであろうと思われるが、キリスト教と接したきっかけが、単に英語の勉強に始まるものであるのか、それとも、十八歳になるまでの間に、何かキリスト教に導かれるためのわけがあったのか、ということが暮鳥の詩を読むために、非常に重要な問題になると思うのだが、その辺の仔細な資料が残念ながら、今入手できないのでこの論においてはあくまで、詩の中に見る詩人、クリスチャン、人間など、これらの問題について考えてみたいと思うのである。
詩集「三人の処女」の頃 大正二年五月出版(三十歳)
この詩集の中に収められている作品は、だいたい作者が二十六歳頃からのものだと推定されるが、年譜によると、洗礼を受けた十八、九歳の頃から、途中日露戦争に従軍し、二十九歳の頃までは短歌を主として発表していたようである。ところが、この期間が最も暮鳥自身が宗教を考え、感じていたであろうし、また、詩作と宗教、そして現実というものについても大きく矛盾を感じ始めていたのではないだろうか。と思えてその上に時代的な背景として当時流行していたデカダンスの風潮に染まっていることが、なおも一層、宗教(信仰)に対し、疑問を持たせたと言えるであろう。この詩集の中には、詩と宗教との関りを考える時、まず次の作品を引用する。
沼
やまのうへにふるきぬまあり、
ぬまはいのれるひとのすがた、
そのみづのしづかなる
そのみづにうつれるそらの
くもは、かなしや、
みづとりのそよふくかぜにおどろき、
ほと、しづみぬるみづのそこ、
そらのくもこそゆらめける。
あはれ、いりひのかがやかに
みづとりは
かく、うきつしづみつ、
こころのごときぬまなれば
さみしきはなもにほふなれ。
やまのうへにふるきぬまあり
そのみづのまぼろし、
ただ、ひとつなるみづとり。
これは、暮鳥の内面深くにあった祈りの姿勢を沼の風景に一致させた美しい象徴詩である。全体をひらがな書きにした、まったく新しいこころみである。当時自由詩が書かれ始めた頃としての自由詩は、表現の可能性を追求し始めていることが理解できるのだが、この作品の中に含まれている宗教詩人としての思想は、/やまのうへにふるきぬまあり、/ぬまはいのれるひとのすがた、/そのみづのしづかなる/そのみづにうつれるそらの/くもは、かなしや、/山の上にある沼を見つめながら、それを/いのれるひとのすがた/と詩う。しかしながらそのあとの/くもは、かなしや/という行がある。沼にうつる雲は、暮鳥が見るものであろうか、それとも暮鳥のまわりの万事であろうか。ともかくも、祈れる人でありながら悲しまなければおれない。それはデカダンスによるものであろうか、それとも人間としての暮鳥が、祈れる詩人でありながら、なおも、悲しさがあるのだろうか、私は後者の方に思えてならないのだが。
/やまのうへにふるきぬまあり、/そのみづのまぼろし/沼の水は結局、ひとのすがたであり、祈れるひとの心でありながら、そのこと自体がまぼろし、だと断定する暮鳥は、何者かへの矛盾、そして不条理性を感じていたにちがいないが、そのもの自体が、この時既に聖職者であったはずの暮鳥の宗教と詩との関りではなかろうか。暮鳥は果して、聖職者として絶対的に祈り得る人であったのだろうか、疑問に思えてくる。
この詩集に収められている作品を読んでいくと、ほとんどの作品が「さみしさ」「かなしさ」のイメイジで固められている。この詩集「三人の処女」自体の作品が統一されたものではなく、いろいろな作品が混合されてはいるが、詩人として未熟であっても、宗教人としては一応、思想自体が決定されていると思わなければならないであろう。なぜならば既に聖職者である。宗教という絶対を持ちながらも詩の中に「悲しみ」や「淋しさ」を詩わねばならないのは何故であろうか。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
第2号の冒頭の部分を紹介してみました。初出は『近畿文芸誌』第77号(1973年3月1日発行)のようです。この頃、私はまだ後山さんと知り合っていなかったのですが、彼は当時25歳。すでにこのような立派な論を発表していたことに驚きます。なかでも〈全体をひらがな書きにした、まったく新しいこころみである〉という指摘は重要でしょう。誰が最初に全行平仮名の詩を発表したのか判りませんが、この論を読むと、あるいは暮鳥が!? と思えてきます。
このあと、有名な詩集『聖三稜玻璃』へと論は進んでいきますけど、割愛せざるを得ません。入手できる方はぜひ読んでみてください。