きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2009.11.3 足柄峠より箱根・大涌谷を臨んで




2009.11.15(日)


 午後から湯河原町に行って、湯河原町秋の文化祭参加「ひめうず読書会」というところで久しぶりに講演をさせていただきました。この会は30年以上も続いている、由緒ある読書会のようです。演題は「なぜ高村光太郎なのか」。
 日本ペンクラブの電子文藝館に高村光太郎の戦中・戦後の詩を載せたことで、それはいかがなものか、という批判がありました。委員会としては問題がないということで決着していますけど、私個人としては光太郎の精神を学ぶ機会になり、それなりの研究をさせてもらいました。「ひめうず読書会」で講演を、とお誘いいただいたときに、光太郎の話ならば、とお応えしたのが実現したわけです。

 内容は拙HPで何度も書いていますし、電子文藝館には「なぜ高村光太郎なのか」という小文を書いていますので繰り返しませんが、光太郎の戦前・戦中・戦後の詩を紹介し、光太郎の詩や活動を批評した評論家の論文を抜粋してお話ししました。もちろん、私としては光太郎を貶める意図ではなく、光太郎という稀有な詩人の全体を知るには決して落とせない部分であり、戦後の山小屋での自炊生活は潔いものだという論旨です。最後は、光太郎の戦中の活動と同じことを現在の私たちも繰り返す危険性がないか、という思いをお話しさせていただきました。

 会場は町立図書館の会議室で、当初は15人から20人ということでしたが、30人ほどの人が訪れて、あわてて椅子を追加するほどでした。これは私が話すから、というのではなく、高村光太郎の話だから集まりが良かったのだろうと思っています。
 やはり、光太郎の戦中・戦後の詩は知られていないようで、質疑応答では、初めて知ったという声が多くありました。光太郎を見直したという声もあり、お話しさせてもらって良かったなと思います。当初の1時間半の予定が、主催者の希望で2時間になりまして、思う存分お話しできたことも嬉しい誤算でした。

 反省点は2つ。一つはお恥ずかしい話ですが、光太郎と交遊のあった頭山満のヨミを間違っていたことです。これは近くにいた男性がソッと教えてくれました。その教え方もまったく嫌味がなくて、一事が万事と言うのもおかしいかもしれませんけど、湯河原町民の民度の高さを感じてしまいました。
 その2は資料の配布の仕方。社員教育をやっていた頃は、資料は一度に配らないようにしていました。必要な部分だけを配布して、その課題が終わったら次を配布、という方法をとっていました。これは先回りして考えることを予防し、一つ一つのセクションを理解してから次に進んでほしいという理由からですが、今回は失敗しました。資料が片面刷りの場合はスンナリいくのですが、今回は5枚の両面刷り。一応、ページ番号は入れておきましたけど、あちこちで紙をひっくり返して混乱する様子が見られました。次回には混乱が起きないように工夫してみます。

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 写真は講演が終わって、お世話いただいた読書会の皆さまと。
 その後「ひめうず読書会」のメンバーに誘われて懇親会にもご一緒しました。真鶴町の絵のあるレストラン<アートギャラリー・海辺の途中>という、東側も西側も海が見える佳いお店です。初めて行きましたけど、オーナーも気さくな人で、いっぺんに好きなお店になってしまいました。お近くにおいでの節は是非ご利用ください。ただし開店は金〜月と祝日。
 午後から夜まで佳い一日を過ごさせていただきました。「ひめうず読書会」の皆さまに感謝します。ありがとうございました!




松尾静明氏詩集『パルナスの岸辺で』
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2009.12.1 広島市東区 三宝社刊 1500円+税

<目次>
序 5         夏の終わりに 6    関係 8
道具 10        口 12         五月 14
猫 16         花 18         少年 20
物語 22        家 24         の 26
桜 28         黒蟻 30        鼡 32
発狂 34        ことば 36       収穫 38
地階カフェ 40     女 42         半分 44
水 46         かお 48        岩 50
訣別 52        子ども 54       卒業 56
さくら 58       記憶 60        九 62
星 64         詩へ 66        この男 68




 
パルナスの岸辺で関係

ケイタイショップヘ入る
新しい虫の形をしたものが 棚へ群がっている

こんなにも 呼びかけるひとがいるのだ
こんなにも 呼びかけられるひとがいるのだ

応待に出た女性は 金属のような光沢で笑いかけてくれる
――会話をするのが面倒になったら このボタンをどうぞ
  もういちど話そうかな と思ったら このボタンをどうぞ

おお
この罪悪感のない風景は美しい
この関係こそは 人類の長い時代の願望だった
痛みもなく いのちといのちの間を
解除したり再生したりできるというのは

おお
この風景こそは 念われてきたものだ
指先で 多様なものを 0と1に収斂しながら
ある時代の地表を
ゴキブリの触角のように関係を揺らし合い
群れて徘徊する抒情的風景こそは

ケイタイショップから表通りへ出る

誰もが呼ばれている

誰もが呼ばれていない

 〈新しい虫の形をした〉〈ケイタイ〉が〈痛みもなく いのちといのちの間を/解除したり再生したりできる〉〈関係こそは 人類の長い時代の願望だった〉という視点は斬新ですし、批評としても優れていると思います。〈呼びかけるひと〉も〈呼びかけられるひと〉も、実は〈誰もが呼ばれていない〉ことなのかもしれません。それが〈0と1に収斂〉したから起きたことなのかは議論のあるところでしょうが、携帯電話に象徴される〈罪悪感のない風景〉は現代文明そのものと言えるでしょう。考えさせられる作品です。




詩誌RIVIERE107号
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2009.11.15 堺市南区 横田英子氏発行 500円

<目次>
たべる          嵯峨 京子(4)   秋            石村 勇二(6)
日溜まり         戸田 和樹(8)   歳末に走れない メロス  釣部 与志(10)
僕らの三日間戦争(6)終章 河井  洋(12)   はとバスで浅草へ     永井ますみ(14)
二〇〇九年の夏      後  恵子(16)   花一輪          清水 一郎(18)
秋の峠から        山下 俊子(20)

RlVERE/せせらぎ 石村勇二/河井 洋/横田英子(22)〜(24)
山下俊子詩集・『黄色い傘の中で』を読む
 清水一郎/河井 洋/嵯峨京子/永井ますみ/横田英子(25)〜(29)

北上夜曲         立野 康子(30)   碧い瞳          蘆野つづみ(32)
さざなみを立てて     松本  映(34)   古い絵日記      ますおかやよい(36)
平和と福祉のために    正岡 洋夫(38)   おじさんはくさい     内藤 文雄(41)
七月           藤本  肇(44)   共鳴する波は       平野 裕子(46)
家の声 6        横田 英子(48)
受贈詩誌一覧            (50)   同人住所録             (51)
編集ノート        横田 英子      表紙の絵/水島征男・詩/正岡洋夫




 
日溜まり/戸田和樹

老人が
日溜まりから
両手いっぱいに秋の陽を掬い取り
口元に近づけては飲む仕草をしている
それを
飽きもせんと
繰り返す

呆けたか
わしは思う

わしは
木陰のベンチに座り
空を仰いでは
雲の行方を確かめて
陽が翳ったらどうしよるやろと
老人の様子を見つめている

時折
老人と目がおうたりする
会釈ともとれない会釈を交わし
わしと老人は
ぼーっと
同じ姿勢で
かたや陽を飲む仕草を繰り返し
かたや老人と空を交互に見つめる

互いのことを
わずかばかりに
あわれみながら

 〈日溜まりから/両手いっぱいに秋の陽を掬い取り/口元に近づけては飲む仕草をしている〉というのは、ああ、いいなあ、と思ったのですが、〈呆けた〉という設定でした。〈わし〉は〈陽が翳ったらどうしよるやろ〉と思うほどですから呆けているはずはないのですが、〈老人〉から見れば同類と思ったのでしょう。それが最終連で分かって、この詩をよりおもしろくしています。実際の話かどうかは関係なく、〈会釈ともとれない会釈を交わ〉すこの二人に親密感を感じました。




詩誌『ぶらんこのり』8号
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2009.11.10 東京都杉並区 中井ひさ子氏他発行
300円

<目次>
Poem
中井ひさ子 あの子は−2      南に−5
坂多瑩子  秋−8         学校−11
坂田Y子  となりのまいちゃん−14 うちの洗濯機−17
Essay〈好きな人〉
中井ひさ子 ジャニーー20
坂多瑩子  しつもん−22
坂田Y子  真央ちゃん大好き−23




 
となりのまいちゃん/坂田Y子

見知らぬ誰かと
すれ違ったとたん
わたしはうでをつかまれた
−まいちゃん
わたしと同い年くらいの見知らぬ女だ
−となりに住んでたまいちゃんよね
違いますと言ってふりほどこうとすると
ますます強くしがみついてくる

−わたしたちふたごみたいに
 なかよしだったのよ
女にうでをつかまれたまま
歩きだすと女もついてくる
−うれしいわなつかしいわ
をくりかえす
−いいかげんにしてください
 わたしはあなたを知りません
ちからいっぱいふり離すと
女はしりもちをついた

あれからわたしはいつものスーパーには行かず
いつもの道を通らない
おかげであの女には出会わない

−いいかげんにしてください
 わたしはあなたを知りません
誰かがわたしをつきとばした
わたしはしりもちをついて
走り去って行く見知らぬ女の
背中に向かって叫び続ける
−まいちゃんまいちゃん

日ざしがすっかりやわらかくなった昼さがり
いつものスーパーにわたしは出かけて行く

 〈わたしと同い年くらいの見知らぬ女〉は、実は自分だったというわけですけど、その伏線が〈わたしたちふたごみたい〉というフレーズにあるのでしょう。私たちは〈見知らぬ誰か〉と自分とは違うと思って生活していますが、本当にそうなのかとこの作品は問いかけているように思います。例えば蟻の群れを見たときに、私たちは個別の蟻のことは考えないでしょう。それと同じように、他の何者かが人間を見た場合、個別の人間のことは考えずに群れとして見られているかもしれません。この作品の意図は二重人格のように思いますので、それからは外れるでしょうが、そんな怖さをも感じました。






   
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