きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2009.11.3 足柄峠より箱根・大涌谷を臨んで |
2009.11.19(木)
午後から日本ペンクラブ「国際ペン東京大会2010」の、第3回詩部門打ち合わせを行いました。これまでにA4縦型という版型や作者紹介の位置などを決めてきましたが、実際に皆さんがどういうイメージを持っているか分からないから、一度持ち寄ったらどうかという、相棒の天童大人さんの助言に従って開催したものです。結論は、やって良かった! です。
私も詩の日本語と英訳を持って行きました。会の運営側ですから、今まで決まった通りの提出になるのは当り前ですが、今回持ち寄られた作品を見て驚きました。打ち合わせには20人ほどが集まり、そのうちの10人が作品を持って来て、他に事務局宛に6作品が寄せられていましたので、それを順次検討していきましたけど、そのうち規定通りになっているのは、なんと3作品のみ!
まだ周知されていないということがよく判りました。特に略歴の書き方で混乱があるようです。今後は理解してもらい易いやり方でお知らせしていこうと思いました。
今日は、大事なことが1点決まりました。一人、見開き2ページを使って、片側に日本語、もう片側に英訳または仏訳、とまでは決めたのですが、日本語を左右どちらにするかあえて決めませんでした。過去2回の打ち合わせで、そこまで余裕がなかったというのが実態ですけど、これは簡単に決められないぞという予感もあったのです。正直なところ、日英または日仏のアンソロジーを創るのは初めての経験です。ここは慎重に、と思っていて正解でした。ご出席の仏文をやっているという大学教授から、主催国の言語が左側になるのが国際的な慣例、と教わりました。席上、特に異論もなく、これで配置は決まり。左側に日本語、右側に英語または仏語となります。
未熟な運営で、P(現代詩)会員の皆さまには行き届かない点が多々ありますが、「国際ペン東京大会2010」を成功させよう! という1点でご寛容いただければと思っています。今後ともご協力、ご教示のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
○硲杏子氏詩集『水の声』 |
2009.11.20
東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 2000円+税 |
<目次>
水の声 6 漂流期 12 生々流転 16
一滴の水 24 天の川 30 国境の川 34
人喰橋 38 花無花果(はないちじく) 42 地虫の唄 46
蟻の行方 50 宿根草 54 タ・プローム 60
フラッシュバック 66 残光の中で 72 浄夜 76
寂しい管 80 レッスン・愛 84 虚構の庭 88
日常の河口にて 92 トロイヤの風に吹かれて 96
観光 102. 死んだ街で 106. 献花 110
懺悔 114. 詩神に 118. とうげのうた 124
あとがき 128
装画・カット 小林恒岳
水の声
おもえばいつもさみしい
管であるこの身を貫き
金色の娘に流れていった
水よ
その光る生命の流れは
やがて海にそそぎ
遥かな大陸の西海岸
フィヨルドの大地に辿りついた
アラスカの氷河が溶けて流れる水の都は
黒潮が大きく渦巻いて流れ着く涯の国だから
水のドラマは生命のドラマとなり
多民族が入り混じって共生する
豊かな人種のカオスでもある
娘が暖めた小さな受精卵が
初めてうぶ声をあげたその日
わたしは小さなその肉の塊を
抱いて天を仰いだ
遠くとおい生命の源流から
れんめんと運ばれてきた
小さくて大きな水の泣き声
やわらかくてうすい皮膚の下を流れる川の
その先にはどんな世界が
どんなドラマが待っているのだろう
おもえばいつもさみしい管ではあれ
水を渡してなおも光を見ることのこの悦び
嫋々として果て知れぬ物語を
あきもせずに書いておられる雲上の
いまはまだ午睡から覚めやらぬ
天の筆者よ
それにしても
あの聖戦とはそも何であったのか
教えてほしい
あの大量に流された血の意味を
愛や憎しみ
理性をも押し分けて
るいるい混淆して渦巻く生命の
ほんとうの目的を
永遠にさみしいのは
むしろあなたのほうではないのかと
少し気付きはじめたこの頃
退屈な人生に耐えながら水を運ぶのも
それほど悪くは無いと思えたのは
終の日を目の当たりにした病床の中だった
晴れたり曇ったり 降ったりやんだり
日に幾たびも変容して流れる
雲の浄化作用
真水と塩水の入り混じった湖から
引き潮の海へと
わたしは新しい生命を抱いて渡った
9年ぶりの第7詩集です。ここでは巻頭詩でもあるタイトルポエムを紹介してみました。〈娘〉さんが〈遥かな大陸の西海岸〉に嫁いだことをモチーフにしているようです。身近な親族から始まり、〈豊かな人種のカオス〉に思いを馳せ、さらに〈あの聖戦とはそも何であったのか〉と日本の歴史にも言及する奥深い作品だと思います。〈天の筆者〉は“神”と考えてよいでしょう。その神を〈永遠にさみしいのは/むしろあなたのほうではないのか〉と見る視線は見事です。〈水〉を基底に、人間を見据えた佳品だと思いました。
○清水弘子氏詩集 『しらゆきひめと古代魚ゴンドウ』 |
2009.10.25 東京都千代田区 花神社刊 2400円+税 |
<目次>
T
じめんになる 8 つめをきる 六題 12
実えんどう月 20 せいかくのいい赤 24
しらゆきひめのたべもの 28 すんなりしろいとうきのスプーン 32
しらゆきひめと女悪魔 36 しらゆきひめの森 40
ことばと え と せんりつ と 44 問うている 48
くくむ 52 みずいろにおおきなしろいバッテン 56
真綿のむこうで疼くこと 60 過渡期 64
U
ゴンドウダンス … 序にかえて 70 赤いきもの 74
五つの覚えがき 78 耳の春 86
まぼろしの道の木の橋に 90 チガヤのキツネ 94
キツネのつえ 98 大ワシ 102
ホーホー笛 106. 古代魚ゴンドウの憂鬱 110
沈む北斗と直立するカシオペアの秋 114. 鳴らす … ホーホー笛U 118
羽毛 122. 冬サソリ 126
あらたなシロタカ 130. エピローグにかえて 134
あとがき 136
くくむ
あめ玉を口に含んで と書いていて ふいに祖母の
ことをおもいだした 祖母は あめ玉を くくんで
と言っていた 幼かったわたしにはそう聞こえたし
祖母もたしかに くくんで と発音していたと思う
「かまんとな くくんどんのやに」
祖母がいつもそばにいた わたしの幼年は 離れ難
い 祖母との日々
妹が父母のところで寝ていても 祖母と寝た 寒い
朝には とおくから はるかなひびきのなにものか
こもったまさつ音を出しながら 動いていくのが聞
こえてきた あれ なに と そのたびたずねる
「汽車やに 汽車が走っとんの」
おんなじ言葉がかえってくるのが あんしんだった
ひんやり顔に朝の空気 肩を出すわたしに
「ひろこ
のり出さんの もうちょっと ぬくとま
ってから 起きよにな」
汽車のひびきがとおくにきこえる そんな朝は 起
きてみると 外はいちめん まっしろの霜
祖母は 乳飲み子のいもうとを背負い 冬になると
布団みたいなどぶくを着こみ バケツにおむつをい
れて 歩いてすこしの川まで 洗いに行った 祖母
がながれにかがんで おむつをふると いもうとの
きいろいうんこが ふうわり浮かんで ながれてい
った
かんせん≠ニ呼んでいた ちいさな川の あぜ道
のような土手 祖母がおむつを洗うあいだ わたし
はそこで つやつやしたはちぼく*を 丹念にあつめ
た ねこやなぎの枝の ぎんいろのふわふわが ぽ
ろぽろ落ちぬよう 気をつけながら 折り取ったり
時間は よどんでいたり 止まっていたり 使って
いたのは ほおっ と 息のこもる ぬくい言葉
それらは かたちのまま ゆうるり ながれの川底
に 沈んでいった わたしはそんな日々の年齢の
はるかに何倍も 生きてしまった じつに じつに
あわただしく
* じゅずだま のこと
4年ぶりの第3詩集です。紹介した詩は、この詩集の中では異質な部類の作品ですが、〈息のこもる ぬくい言葉〉に触発されてしまいました。著者の現住所は三重県四日市市になっていましたから、おそらく〈幼年〉時代も過ごした地だろうと思います。〈どぶく〉も三重の方言でしょうか、〈祖母〉の言葉とともに温かさを感じます。最終連の〈わたしはそんな日々の年齢の/はるかに何倍も 生きてしまった じつに じつに/あわただしく〉というフレーズがとてもよく効いています。本来は〈ゆうるり〉流れるはずだった時間が、いつの間にかせわしいものになってしまった現在、失くしたものは何かを考えさせられました。
○小説と評論『カプリチオ』31号 |
2009.11.30東京都世田谷区 667円+税 二都文学の会・草原克芳氏発行 言海書房発売 |
<目次>
◇創作
下北沢路地裏ツアー―――――――草原克芳 4 渇いた羽音――――――――――関谷雄孝 38
剥製――――――――――――――万 リー 74 開いている扉―――――――――荻 悦子 86
孤老の恋――――――――――――兼多 遙 97
◇エッセイ
はるかなる映画の時代――――――谷口葉子 35 少し、しんどくなりました―――宇佐美宏子70
どこかに恋愛小説作家がいたのか―吉田千秋 95
告知板 編集後記
装画 上原修一/装幀 K Graphics/カット 高柳有希
下北沢路地裏ツアー/草原克芳
1
茶沢通りに面した北沢タウンホールのアトリウムを通して、淡い光がフロアを水色に染めている。桜の散ったなごりが、まだ道沿いのそこかしこに残っていた。それでも春とはいえ、すでにいささか蒸し蒸しするほどの暑い陽気であった。
羽木務は、腕時計を見て、集合予定の二時を少し過ぎたことを確認した。
すぐ向い側のバス停から、のろのろと三軒茶屋方面に、バスが走り出す。車体には、春にしては強過ぎる陽が舐めるように照りつけ、まばゆい光を反射している。
閑散とした広いタウンホールの一階ロビーでは、椅子とテーブルが散在していた。カップルが黙り込んでコーヒーを啜っている。他にも暇そうな年金生活者ふうの老人、買い物籠をかかえこんだまま放心したような顔で休んでいる主婦、仕事を探し疲れてタバコをふかしているといった風情の若者などが、所在なさげに腰を降ろしていた。
無言で、あるいは小声で囁きながら座っている彼らの足元には、青灰色の短い影が落ちていた。
奥の方では、ガラス超しに二三人の職員がデスクに向っているのが見える。いかにも日曜の午後の公共施設の退屈そうな風景だ。
さっきから羽木務は、いやな予感がしていた。
自販機の前で旗を持って立っている初老の人物が、このツアーの主宰者だろうか。《下北沢路地裏ツアー》と旗に書きつけてある。
年の頃はおそらく七十代、若くて六十代後半だろう。胡麻塩頭に被せた紺色のキャップを被り、白いもののまじった顎髭を生やしている。小柄だが精悍な印象があり、全身から何か闘志のようなただならぬものを放っている。両足を踏ん張るようにして、仁王のように立ち尽くしているのだ。
彼はそれとなく自販機にコインを入れて、冷たいコーヒーを飲んだ。
「あなた、メールくれた方?」
いきなり老人の顔が、隣にあった。
「ええ。すいません」
「謝ることないよ。それにしても今日は、集まりが悪いなあ。もう、予定時間なんだが」
彼は、時計を見た。二時三分。無骨なダイバーズ・ウォッチだ。
やっぱりやめとけばよかった。ほんの思い付きで参加した市民団体のイベントではあった。しかし、このいかにも頑固そうな、煮ても焼いても食えないような老人と二人だけで、二三時間歩くことになるのだろうか。気の弱い彼は憂鬱になった。せっかくの天気なのだから、家の近くの野川沿いの遊歩道でもゆっくり散歩していればよかった、と彼は思う。
「私、こういう者です」
白髪まじりの男は、にこりともせず、名刺を手渡した。
――画家 アトリエ牧田主宰 彩明会会員 牧田徹吾――
洋画家というよりは、作務衣が似合いそうな、頑固な職人といった感じの人物だ。人生についていらぬ説教でもされてしまいそうだ。羽木務は、名刺を持ってきていないことを謝り、喜多見に住むフリーのライターですといった。
羽木は、知人の編集プロダクションから急ぎの仕事が入っていたのに、なかなか集中できず、ネットで調べ物をしていると、たまたまこの『路地裏ツアー』の広報が目に触れた。いっそ気分転換にと思って、足を向けたのである。ごく軽い気持ちでの参加であった。
しばらくしてもう一人、灰色のハンチングを被り、ステッキを持った背の低い小太りの老人が、にこやかに挨拶した。
「お世話になりますよ」この人物も参加するらしい。甲高い嗄れ声で、昔の江戸っ子ふうの雰囲気の老人だ。祭りの日など、半被を着て世話役などやったら似合いそうである。
――突然、エントランスの回転扉が回って、いきなり華やかな空気が撒き散らされた。
「ごめんなさい、牧田先生。ちょっと秘書との打ち合わせが長引いちゃって」
「五分遅刻」ぼそりと画家はいった。人が集まり始めた。
「もう、いじめないでよ、そうやって」
すねたように、笑った。
「こちらが有名な美人区議の御厨景子さん。こちら、今回初参加の、ええと、羽木さんでしたっけ」
画家はそれぞれを紹介した。
「あたし、話には聞いてたものの、今回参加は初めてなのよ。ちゃんと再開発計画の具体的な範囲を、自分の目で確認しておかないとね」
「ええ。僕もこの道路計画は、ネットや広報で知っていただけで」
羽木務は目をぱちくりさせた。ひょっとして、区の広報誌などに顔写真入りで出てくるあの女性区議会議員だろうか。
目を惹く派手な顔立ちのためか、最近は、一般の雑誌などでも取材されているし、ネットでも話題を呼んでいる。憂鬱が少し吹き飛んだ。
「何でこのツアーを、お知りになったのですか。あのホームページで、よくわかりましたね」
「いえ、この間、テレビでも下北再開発問題を取り上げていたので、ここのところ、注意して検索したのです。それであのサイトに引っかかって」
「そうか。テレビの影響か。ふむふむ」
グラマラスな美人区議は、ボールペンを取り出し、手帖に何かを書き付けた。「やっぱり強いわねえ、一般大衆には、テレビの影響」
(ちぇっ、一般大衆かよ)と思いながらも、羽木は見とれていた。白いブラウスに黒いパンツといったシンプルな格好だが、彼の知らない外国ブランドらしく、全体のラインが、どことなくスタイリッシュだ。胡麻塩頭の画伯と並んでいると、奇妙な組合わせである。
こんなことなら、Tシャツにジーンズなどという貧相ないでたちではなくて、もう少しましな服装をしてくればよかったと後悔した。
「あ、来た来た」と美人区議が小さく手を振った。
エントランスに、痩せた細縁メガネの男の影が現れた。ショルダーバックの中身を気にしながら、ひょいひょいと、軽い足取りでやってくる。
「そのサイト作った澤田さんです。塾の先生」
「まあ、あの、塾教師、ていうか……」とメガネの男は顎に人差し指をあてた。「いや、実は私、某国立大学の院生くずれでして。学問で飯を食おうと目論んでいたら、教授と合わなくて、人生曲がってしまったという、よくあるパターンの、なんとも情けない。特に謀大学の場合は……」
「その謀大学って、どちらなんですか」羽木務は、何の気なしに訊いた。
「まあ、いちおう」と澤田はいった。「いちおう、東京とか、ついてるような、しょうもない、いわゆる、日本の代表的な、税金の、無駄使い大学で、ありまして」
すると美人区議が、突き放したような口調で、
「ちゃんと、東京大学っていいなさいよ、トーダイって。自慢なくせに」
「あ、またまたまたァ、御厨女史は、そういうふうに、個人情報を、勝手に、横流しするんだから」
痩せた塾教師は、片手を口元に当てて、照れ隠しのような笑い声を上げた。
もう時刻を過ぎているが、何人ぐらい集まるのだろうと、羽木は訝った。集団は苦手なので、これ以上増えない方がいいとも思う。
「お、マスター、登場だな」顔をしかめて、画家がいった。
色浅黒い、体格のいい中年男が「失敬」とでもいうように、額に手をかざしやってきた。「昨日、友達が店に来て、四時過ぎまでどんちゃん騒ぎやってて、片付けに手間がかかって」エキゾチックな顔立ちで、髭が似合う。太い首にはペンダント、腕にはブレスレットが光っていた。
「言い訳、無用」
にやりと渋く笑いながら、画家はいった。
「彼はバー『ロシナンテ』のオーナーよ。これでとりあえずメンバー揃ったのかしら。それにしても、暑いわね」
美人区議は、生白い首をあげ、片手に摘んだハンケチで、無防備に胸元に風を入れた。羽木務は、どきんとした。選挙の票の三分の一は、この色気で吸い寄せたに違いない。
そうこうするうち、さっきから奥でもじもじしていた二十代のカップルが、こちらに近づいてきた。
「路地裏ツアーの方、ですか」と女がいった。
「ええ」と御厨区議。
「参加しても、いいてすか」男は、気弱そうな笑いを浮かべた。
「もちろんよ」
お互いに挨拶を交わしたり、耳打ちをしたり、市民ホールの一画が少し騒がしくなった。
――ふと、空気が、変わった。
牧田画伯が話を始めるらしく、持っていた旗を痩せた塾教師に渡して、後ろ手を組みながら、真ん中に一歩進み出た。
「ええ、牧田と申します。絵描きをやっております」
老画家は、メンバーを前に、あらためて話を始めた。
「ご存知の通り、小田急線下北沢駅前を、現在、何とも無骨な、高さ二、三メートルの白い壁が囲んでおります。ちょうど、パレスチナのガザ地区を囲んでいるような、趣のない鉄のフェンスですな。線路脇にも、中から太い黒蛇のようなパイプがはみ出したり、泥まみれの瓦礫のような資材が積み上げられていたり、この町に似つかわしくもない、何とも荒涼とした、戦場のような、工事風景が展開しております」
羽木務は、少し離れたところで、二人のタウンホールの職員が、こちらを見ながら、ひそひそ話をしているのに気がついた。すでにロビーで缶コーヒーなどを飲んでいた一般市民が、面白がってこちらの方に耳を傾けている。
「ついこのあいだまでは、あそこでギターを弾いたり、大道芸をしていた若者たちも、すっかり、いなくなってしまった。そして、ラブソングやギターの調べのかわりに、鋼鉄の重機が、日々、物凄い音を立てている。これは、駅前再開発計画ということで、小田急線を、地下にする工事であります。ところが我々の調べによりますと……」
羽木務も、ネットや雑誌を通じて、ある程度の知識は入れていた。
幅二十六メートルというのは、環状七号線並の幹線道路だ。この道は、山手通りと環七とを結びつけ、交通量を緩和させるのだそうだ。牧田画伯の言うところによると、世田谷区は、小田急線の駅前再開発計画に強引に連動させて、六十年間も眠っていた計画を、いきなり復活させ、補助五十四号線という、幅二十六メートルもの幹線道路まで、作ることになったという。私企業と区の行政が手を結び、あえて何の工事か分かり難くしているようにも見える。
「しかも、その巨大道路――これは、米軍占領下の時代、昭和二十一年に計画された過去の亡霊みたいな道路計画で、かつてマッカーサー道路といわれていたものであります。この道路が、駅のすぐ東側、なんと、演劇の町、下北沢の文化的シンボルともいわれるスズナリ劇場や、その背後の斜面にあるカトリック世田谷教会を、完璧にぶっつぶします。さらに、線路を斜めに横切りまして、北口のいちばんシモキクらしい町並み、すなわち、ブティックや、アンティークショップ、古着屋や、エスニックレストランの並ぶ個性的な区域を、無味乾燥でだだっ広いだけの、アスファルトのロータリーに、変えてしまいます」
「まあ、京都でいうならば」美人区議は、突き放した口調でいった。「町屋や祇園みたいな魅力的な小路を、いきなり壊しちゃうわけよね」
「そんな風景は、千葉や埼玉に行けば、幾らでもあるだろ」
低く官能的な美声で『ロシナンテ』のマスターはいった。
「そう」と老人は、力を込めた。
「文字通り、文化破壊道路、神をも恐れぬ悪魔の道路で、あります。第一に、はたしてこの巨大道路が、すでに拡張工事を経ている井の頭通りの完成後に、本当に必要かどうかということ。第二に、この区のプロジェクトが区民に、つまりわれわれ納税者に、適切に情報開示されてきたのかどうか、ということであります」
「いいぞ、巨匠。その通り!」
マスターは、自分の低い声の魅力を、十分に意識していた。ハンチング帽の江戸っ子風の老人は、マスターの顔を不快そうに眺めている。
「あの、すいませんが、政治的演説はタウンホールでは、遠慮していただきたいのですが」
いつのまにか中年の職員が、彼らの背後に立っていた。
「はて、なにか。私は仲間と、立ち話していただけですよ」
牧田老人は、職員を睨み据えた。熟練の寿司職人や、蕎麦屋の店主のような、気迫ある面構えだ。
相手は愛想笑いをしながら、「ここはどうか、ホール内からお引き取りいただきまして」と画家をエントランスの方へ促すような仕草をした。彼は、しばらく沈黙したあと、ごほんと咳払いをして、「まあ、おいおい歩きながら、解説いたしましょう」
職員は安堵の表情をした。ロビーにたむろしていた市民たちはくすくす笑っている。
最初、何となく苦手に感じていた羽木務は、この老人画家を、少し好きになっていた。最後に遅れてきた男性が一人、慌てて駆け込んできた。痩せた背の高い人物で、のっペりとした、眉の薄い、とりとめのない顔をしていた。髪が短いので、尼さんのようにも見えるし、白いナマズのようにも見える。目だけが異様に鋭い。
「ええと、これが今回の地図ですね。ちょっと文字が小さくて見えないかな」
画家に促されて、塾教師の澤田がバックの中の資料を取り出し、参加者に手渡した。白ナマズは、資料を渡されると、畏まってお礼をいった。
「それでは、みなさん、出発します」
牧田画伯は再び旗を受け取って、野武士のように厳かに歩き始めた。一行は、それについてゆく。
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今号の巻頭作「下北沢路地裏ツアー」は1章から5章までありますが、ここでは冒頭の1章のみを紹介してみました。〈小田急線下北沢駅〉は、私も月2回ほど〈某国立大学〉で開催される日本詩人クラブのイベント参加のため、京王井の頭線乗り換えで利用しています。昼食を摂りにときどき街を歩きますけど、〈ブティックや、アンティークショップ、古着屋や、エスニックレストランの並ぶ個性的な区域〉であることが理解できます。小説は、その〈駅前再開発計画〉を真正面から取り上げていますが、作品の眼目はあくまでも“人間”にあるように思います。紹介した1章では、その登場人物すべてが顔を出し、これからいよいよ〈路地裏ツアー〉が始まりますけど、あとは本編に譲りましょう。ぜひ手に取って読んでみてください。登場するそれぞれの人間像に魅了されると思います。