きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2009.11.3 足柄峠より箱根・大涌谷を臨んで




2009.11.20(金)


 午後から父親の入院先に出向きました。見舞いではなく、あくまでも出向いたものです。
 一人暮らしの父親が実家に戻れる見込みがなくなりましたので、実家の売却を決めて1ヵ月あまり。幸い地元の建築会社が買い取ってくれることになって、今日は契約を交わす日でした。実家は父親と私の共同名義になっていますから、父親の許諾も必要ですので、司法書士とともに出向きました。契約書には父親と私の直筆署名・実印押印が必要ですが、父親は字を書ける状態ではありません。司法書士が私の代筆で良いと認めて、書類は無事に完成しました。

 同席の、仲介した不動産会社の担当者からは、11月末で明け渡すようにと言われました。えーっ、あと10日しかないじゃん! と思いましたけど、これが12月末に延びても来年になっても事態は同じです。この10日間で思い切ってやるか! と納得して、応じました。弟妹にはさっそくメールで知らせました。持って行きたいものがあったら、今月末までに持って行くように…。それぞれ独立して30年ばかり。個人の荷物で置いてあるものと言えば私の本ぐらいです。好きなものをどんどん運び出して、家の中を空っぽにしてくれ! というのが私の本音です。残ったものは廃棄物として処分してもらいますから、少ないに越したことはありません。

 問題は私の本だなあ。おおよそ3000冊。4本の本棚とダンボール入りが10個ほど。狭い拙宅を少しでも快適にと思って、セッセと実家に運びましたが、ここにきてしっぺ返しを喰らったようです。しかし、その大部分は皆さまから頂戴した貴重な寄贈本。全て回収します。ついでにきちんと整理できればいいのですが、それにはもう少し時間が掛かりそうです。




江知柿美氏エッセイ集
『存在(いること)と不在(いないこと)
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2009.10 東京都世田谷区 私家版 735円

<目次>
存在
(いること)と不在(いないこと)…1
中村彝
(つね)の生地水戸ヘ −エロシェンコの調べに導かれて−…3
追悼北村太郎 −不確かなことばを使って− 確かな存在
(あるもの)を…11
プラハ随感…15
「ブレード・ランナー」を見る…21
五〇年遅れの小学校卒業式…27
「戦争・人間展」とゴヤ…31 
・・                                 ・・
シカゴ・ブルース −旅でみたいえ− 
シカゴ・ブルース感謝祭と日本料理店スマイルそしていえ…35
大学寸景…41
東京散歩 長谷川利行を辿る…43
スリランカ…49
ここに暮らして…55
個人的な夏の記録…59
桑名に思う…61
近辺雑記 (一)野菜直売 (二)お医者さんのこと (三)花火…65
個展での出会い…69
「本居長世展」とその後…71
私たち そしてY子の死…75
胡同
(フートン)のひまわり…79
北村先生の墓参…83
カモがいて…87
強制連行…89
リマチル坊や…93
マリのいた日…97
文鳥プー雑記…101
掲載誌・年月
あとがき




 
いること  いないこと
 
存在と不在

 暮れに父が亡くなり、先頃都営の霊園に埋葬した。墓石の前の石をはずし、母の壷の横にその骨壷を納めた。その傍には、両親が生前に墓地を買うために用意した、父の郷里の墓の土を入れた小さな壷があった。係の人の話では、十個は入るが足りなくなったら下に掘り下げていくのだということだった。三つの壷を足下に見たとき、今この霊園の土を一気にとり払ってしまったらどんな光景だろうか、と酷いことが頭に浮かんだ。何千基の墓があるだろうか。それぞれに十個の骨壷があるとして、どれだけの壷が並んでいるのだろうか。十五年前の母の葬儀に参列した人のうち何人かがすでにこの世から姿を隠している。わかりきったことだというのに、なんだあなたたち、こんな恰好でここにいたのか、という衝撃を受けたのだ。父も今は一つの物体としてあそこにある、それが父のすべてだ、というのが私の認識の一つだ。

 しかし又、なきがらは確かに人の身体の一部ではあったものだが、これは本当は何だろうかとも思う。散歩中に倒れて救急車の中で心臓も呼吸もとまってしまった父は、機械で呼吸を維持されながら病院に運ばれていった。その姿をみつめながら、もうここに父はいないのではないか、などと考えていたのだ。蝉の抜け殻か、或いは等身大の縫いぐるみみたいなものだったかもしれない。あのときあそこに父はいたのか、いなかったのか。

 人が死ぬとき飛び出す飛翔霊波というものを研究している科学者がいるそうだ。霊波とは言わなくても、霊魂、ひとだま、プラフマン(梵)にアートマン(我)、似たようなことばをいくつもきいたことがある。小宇宙ともいわれる人間を人間たらしめているものが、「死」と共に一瞬にして消滅してしまうのか、身体と精神の関係はどうなのか、古来沢山のことが言われてきている。「リグ・ヴェーダ」では、人が死ぬとその諸機能は対応する自然界に解消する、としながら、自然界に解消されない何かがあると言っている。ウバニシャッドでは、死神自身に「死後のことについては古来神々でさえ疑問をもっていた。それを教えることを私に免れさせてほしい。死について尋ねてはいけない」と言わせている。死神自身が言っているのだから面白い。原始佛典の(毒矢のたとえ)にも、世尊のことばとして「身体と生命は同一のものであるとも別個のものであるとも説かない。人は死後存在するとも存在しないとも説かない。云々」と書かれている。今迄どれだけの文字とことばを使って説かれてきたか、それでもわからない。この考え方も、遠慮した唯物論「不可知論」の一つでしかないのだろうか。この間題はすでに解決ずみと明快に断言している人は多いし、科学の力で今後比較的近いうちに解明されると考えている人もいる、ということは承知している。

 死後のことが今のところわからないとしても、生き物の免れられない「死」をどう捉えるのか。身体中に管を繋いでまで生き延びたいという願いと努力。すさまじいまでの生への執着。その期に及んで私が超然としていられるなどとは決して言わないでおこう。今はまだ恐いものばかりなのだから。

 でも手塚漫画の「火の鳥」の青年は、犯した罪に対する報いとして死ぬことが許されないでいる。輪廻の世界の考え方も似ているようだ。子供の頃、地球のまわりをいつまでも回り続けているという恐い夢をみたことがある。落下すれば死んでしまう。それなのに落下できないでいる恐ろしさ。終りのある恐れと、終りのない恐れ。もし永遠に死ぬことができないとしたらどうだろうか。死があるから生は肯定なのだ、という考え方はいくらでもある。こういうのを積極的ニヒリズムというのだときいたことがある。

 最近評判の映画ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」は、モノクロームとカラーの変化が楽しめる作品だ。天使のときはモノクロにしかみえなかった世界が、天使としては死んで人間になるや、けがをして出た血の色さえも鮮やかに美しくみえてくる。地中の骨壷を見たとき、地上のものが色彩を失っていくのを感じた。しかしこれに華やかな色をつけてしまう、又は黒白だからこそ輝かせてしまう。死の死としての生。これは濃淡のはっきりした鮮烈な像を作るのかもしれない。

 母が亡くなって以来、独り暮らしの父に一日一回電話をかけるのが私の日課だった。それも夕方七時に。今でも七時になると受話器をとってダイヤルを回してしまう。呼び出し音が父の書斎に響く。この時父の存在を確かに感じ、そして父の不在を確かに感じる。アートマンは「見ながら見ず、聞きながら聞かないもの」だそうだ。存在と不在は境界の定かではないもの、と感じながら、しばらく受話器を耳にあてている。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 1984年から2009年までに、主に詩誌『アル』で書いたエッセイをまとめたものです。タイトルであり、巻頭の「存在と不在」を紹介してみましたが、これは1984年に書かれたものでした。このルビの振り方がユニークですが、そればかりではなく「存在と不在」の本質に迫るエッセイだと思います。〈人は死後存在するとも存在しないとも説〉けないし、〈存在と不在は境界の定かではないもの〉だろうと私も感じています。考えさせられるエッセイでした。




詩とエッセイ『橋』128号
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2009.11.15 栃木県宇都宮市
橋の会・野澤俊雄氏発行 800円

<目次>
作品T
◇時             瀧  葉子 4  ◇暮らしはあまりにも     冨澤 宏子 6
◇エントロピー        和田  清 8  ◇一粒の抵抗         大木てるよ 10
◇夜の台所          高島小夜子 12  ◇季節のはずれ        高島小夜子 13
◇沼地にて          都留さちこ 14  ◇今畜生−ハツカ鼠野郎−   北見 幸雄 16
◇影・考           戸井みちお 18  ◇日の出           草薙  定 20
エッセイ
◇子規と糸瓜         沼  文録 22  ◇犬の遠吠−ごまめの歯軋り(V)戸井みちお 24
石魚放言
◇・・と云う時間あり     壷中 天地 25
作品U
◇約束            國井世津子 26  ◇トレッキング(月山)    酒井  厚 28
◇老いを想う         相馬 梅子 30  ◇板橋があった頃       簑和田初江 32
◇窓から流れ込む風      江連やす子 34  ◇白 灰 黒〜肌の色ではなく〜壷中 天地 36
◇政権交代          若色 昌幸 38  ◇古拙の微笑         野澤 俊雄 40
◇今考えていること    そらやまたろう 42
書評−橋からの眺め.     野澤 俊雄
◇菊田守詩集『天の虫』土曜美術社出版   43  ◇上田周二詩集『彷捜』沖積社       43
橋短信 風声         野澤 俊雄 44
故旧懐古 ◇手塚 武二つの詩碑      45  受贈本・詩誌一覧             46
同人一覧 編集後記               題字 中津原範之   カット 瀧 葉子




 
エントロピー/和田 清

人はなぜ
ごみを捨てるのだろうか

ごみの捨て方にも
いろいろあって
うっかりつい不注意にというのもあれば
カッと頭に来てぶちまけたものもあり
この世のありとあるすべてを呪い
捨てて汚すことに使命感を抱いている
そんな捨て方もある
でもこれらは
ごみを捨てることのどこかに
罪の意識がひっかかっている

何げなく
当然のこととして
用を足すように
捨てる
こういうのが
ほんとうはやっかいなのだ

ごみを拾うようになると
人はごみを捨てなくなる
捨てる神もあれば
拾う神もある
ということか

男も女も
家も
私心さえも
捨てる
これらも全部ごみになる

おそらく
人は
ごみを捨て続ける
だろう

 久しぶりに〈エントロピー〉が出てきましたので調べてみました。当り前ですが、手持ちの理化学辞典もネットのフリー百科事典Wikipediaも同じことが書かれていました。ここでは、より判りやすいWikipediaの方を紹介してみます。

<エントロピー (entropy) は、物質や熱の拡散の程度を表すパラメーターである。エントロピーは、ドイツの物理学者クラウジウスが、カルノー・サイクルの研究をする中で、dS=dQ/Tという式の形で導入した概念で、当初は、「でたらめさの尺度」としてではなく、熱力学における可逆性と不可逆性を研究するための概念であった。しかし、原子の実在性を強く確信したオーストリアの物理学者ボルツマンによって、エントロピーは、原子や分子の「でたらめさの尺度」である事が論証された。そして、更に、物質から得られる情報に関係があることが指摘され、情報理論にも応用されるようになった。一般に記号 S を用いて表され、S = kB ln Ω と定義される。ここで、Ω は物質がとりうる状態の数、kB はボルツマン定数である。この定義より、エントロピーはボルツマン定数と同じ「エネルギー÷温度」の次元をもち、単位は J/K である。>

<たとえば、分子が自由に動き回る気体は、分子が結晶格子に束縛されている固体よりも、エントロピーが大きい。砂糖を水に溶かして水溶液中で拡散させると、砂糖のエントロピーが大きくなる。しかし、本が本棚に並んでいるのと床に散らばっているのとではエントロピーは変わらない。どのような本の並び方(巻数順に並べるか、大きさ順にするかなど)はどちらが乱雑かということは議論できないからである。一般に、エントロピーが乱雑さを表すというのは、原子・分子のレベルでの話であり、我々の暮らしている大きさの世界の話と混同してはならない。


 この理論の“
本が本棚に並んでいるのと床に散らばっているのとではエントロピーは変わらない”を元に作品を考えると、最終連の〈おそらく/人は/ごみを捨て続ける/だろう〉という結論は正しいと思われます。〈ごみ〉の総体について書かれているだけですから。本当は第1連の〈人はなぜ/ごみを捨てるのだろうか〉という設問に回答を与えたいところですけど、“我々の暮らしている大きさの世界の話と混同してはならない”そうですから、無理なのかもしれませんね。無い頭を絞りましたが、楽しませていただいた作品です。




詩誌『山形詩人』67号
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2009.11.20 山形県西村山郡河北町
高橋英司氏方編集事務所・木村迪夫氏発行 500円

<目次>
詩●あるさみしさに/平塚志信 2        詩●風景論/高 啓 5
詩●太陽からのメール/山田よう 9       詩●カール・ブッセ病症候群/阿部宗一郎 12
詩●未来予想図/高橋英司 18
評論●観照論あるいは秋の日の三重奏 ――芝春也詩集『言楽二重奏』論/万里小路譲 20
詩●小詩集 いろはにほへと/菊地隆三 27
詩●わたしの好きな浮舟/佐野カオリ 34     詩●さぎそう・光まぶしい朝/近江正人 36
詩●麒麟山温泉/佐藤伝 41           詩●ある男/島村圭一 45
詩●がんばろうね/木村迪夫 48
詩●承前 未成の詩「ソマリアの傷」について/大場義宏 50
後記 54




 
あるさみしさに/平塚志信

時計を見て
職場に出かけ
時計を見て
待ち合わせの場所へと急ぐ
そのとき
火星において
木星において
時間は何のために流れているのか

ぼくたちだけが
時間を刻み
時間に意味を見出そうとしている
たぶん

一秒をはかり
一日を過ごし
一年を思いやって

――遅刻
なんて言葉までつくつて

星から時を与えられ
月から時を与えられ
太陽から時を与えられて

時間とは
天からの贈り物なのだと気がついても
ぼくたちは
結局
地上の出来事に忙しい

宇宙は認識されることを求めているのか
ぼくがぼくの言葉を一人でも多くの人に認めてほしいと
願っているように

もしも宇宙がさみしがったりしないとしたら
ああ それなら
ぼくたちはどうして
さみしいなんて気持ちを覚えてしまったんだろう

 〈時間〉と〈さみしさ〉の2点について書かれた詩ですが、うまく絡ませていると思います。まず、〈時間〉は〈天からの贈り物〉としたところが斬新です。次に〈さみしさ〉を〈もしも宇宙がさみしがったりしないとしたら〉という視点で捉え、〈ぼくたち〉との共通項として〈宇宙は認識されることを求めているのか〉というフレーズで両立させています。その結果、〈時間〉と〈さみしさ〉が同じ土俵に収まったわけで、最終連の〈ぼくたちはどうして/さみしいなんて気持ちを覚えてしまったんだろう〉というフレーズが生きてくる、そういう構造になっているのだと思います。〈地上の出来事に忙しい〉私たちも、一度立ち止まって考えてみたいですね。






   
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