きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2009.11.3 足柄峠より箱根・大涌谷を臨んで |
2009.11.22(日)
午後から日本詩人クラブ「創立60周年記念事業実行委員会」の第2回委員会が市ヶ谷の私学会館で開かれました。今回は来年11月6日に明治記念館で開催される詩祭のおおまかなスケジュールが報告されました。さらに、本年12月12日に芝・弥生会館で開かれる、恒例の国際交流・忘年会から、2010年12月11日の国際交流・忘年会まで、向こう1年間の主な行事がすべて創立60周年記念事業と位置づけられました。具体的には来年5月の関西大会、8月の詩書画展などです。
実行委員会の役割分担も発表されました。総勢100名ほどが何らかの役割を与えられています。私は広報・記録係と写真係でした。仕事の内容を見ると、広報・記録係はHPでの広報などとなっていましたから、まあ、これは今までの流れを考えれば当然だなと思います。そして写真係としては、〈当日の写真撮影〉となっています。ん!? 当日の、ということは全イベントに参加して写真を撮れ、ということじゃないですか! まあ、今までもほとんどのイベントに参加していますから、しょうがないでしょうね。参加できなかったら誰かに頼んでおけばいいわけですし…。
詩人クラブの節目の創立大会は、40周年、50周年と参加して、今回は60周年。私が会員になってからでもまるまる20年の歳月が流れています。それぞれに記憶に残る大会でした。今回も歴史の1ページを飾ることができるように、微力ながら協力したいと思っています。拙HPでも紹介していきますので、ご都合つく方はぜひご参加ください。お待ちしています!
○詩誌『ニンゲン』創刊号 |
2009.11.15
岡山県瀬戸内市 現在実験箱・森崎昭生氏発行 300円 |
<目次>
副葬花束(一) K.いずま 除く・渚にて・貧しき川 森崎昭生
齋藤國雄ノート(一) 平 博志 風、わたる 黒住泰子
掌説・不見糸、サヨの灯 浅木母里 万葉集拾遺(一) 森崎昭生
除く/森崎昭生
(一)
地(ぢ)の人は
畑に生える作物以外の植物をどれも〈クサ〉とよぶ
イヌフグリ・コハコベ・ホトケノザ
ナズナ・ノミノビョウブ・ハハコグサ…これは〈クサ〉という草
スズメノカタビラ・カタバミ
ヒメシバ・ツユクサ・スベリヒユ…これもたんに〈クサ〉
ヨモギ・イヌタデ・アキノノゲシ
スイバ・ヒヨドリバナ…これもただの〈クサ〉
〈クサ〉の名を覚えてはいけない
名前の由来と
それぞれの季節に咲く花びらを想ってしまうから
草は草でなく〈クサ〉としておいておかなければならない
(二)
根絶やしにするには春の初めと夏の終わりがちょうどいい
春の初めは一芽一芽摘めばいい
ていねいに幼子の首を抜くように
夏の終わりは臨月間近な頃に刈り取る
新しいいのちが熟す前に
おまえの花びらの可憐さを知っている
おまえの季節の歌を知っている
おまえだけにある名まえを知っている
しかし〈雑草〉というレッテルを貼る
除く・除かれる
いつか理由にならない理由で
なにものでもないはずの おれをまた
そして あなたもまた……
新しい詩誌の創刊です。おめでとうございます。紹介した詩は〈地の人〉にとっては大変な思いのようです。私は裏の畑で日曜菜園程度の野菜しか育てていませんので実感がないのですが、本物の農家の人は〈クサ〉を目の敵にしています。その理由は〈畑に生える作物〉の栄養を吸い取ってしまうからだと聞いたことがありますけど、そのためにも〈〈クサ〉の名を覚えてはいけない〉のでしょうね。最終連は、その〈クサ〉と同じように〈おれをまた/そして あなたもまた〉〈いつか理由にならない理由で〉〈除く・除かれる〉のではないか、と見事に締めています。今後のご発展を祈念しています。
○館報『詩歌の森』57号 |
2009.11.5
岩手県北上市 日本現代詩歌文学館発行 非売品 |
<目次>
「批評」と「臨床」/斎藤 環
文学館活動時評23 おとなの本気を見せよう/吉成信夫
詩との出会い24 消えてしまわないように/杉本真維子
シリーズ 詩歌の舞台裏5 きららかな歌碑の誕生/川村杳平
連載 現代詩時評3 詩人の仕事/高橋順子
資料館情報
詩歌関係の文学賞 2009.6〜9発表分
2009年度常設展 食卓と詩歌 開催中
−太宰治『散華』の詩人− 三田循司資料特別公開 開催
日本現代詩歌文学館振興会評議員動向 2009.6〜9
日録 2009.6〜9
後記
詩との出会い24
消えてしまわないように/杉本真維子
詩歌との出会いは、人との出会いなどとちがって、ここ、という定まった言い方ができない。いろいろなものが複合的に集まっているからだろうか。いつも揺れる。聞かれるたびに違うことを答え、言ったあとは、なんとなく後悔に似た気持ちになる。
ただ、変わらないのは、本当の最初の出会いは、作品ではなかった、ということだ。子どもの頃、世界が一変するような体験をするたび、その中心にある種みたいなものが気になって、今思えば、私はそこに「詩」を見ていた。理屈ではなく、物事の本質をすばやく露呈させる、ふしぎな力を。たとえば、ある午後、テレビに年配の人たちが映っていた。自分があの人たちの年齢になったら、ここに映っている人は誰もこの世にいないかもしれない。急にそう思ってぞっとした。泣いた。生の残酷さを、理由のわからない衝撃とともに知ったときの孤独な浮遊感は、私を書くことへといきなり向かわせた。そうでもしなければ、何もかも消えてしまうような気がしたのだ。あのときの震えは、現在、濃密な詩に触れたときの感覚と同質であるように思える。(以下略)
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杉本真維子さんの文章の前半部分を紹介してみました。〈生の残酷さを、理由のわからない衝撃とともに知ったときの孤独な浮遊感〉が詩人として成り立たせているようですが、この感覚は大事でしょうね。〈生の残酷さ〉を感じるか感じないか、その差が詩人であるかどうかを決定しているように私も思います。
○梅澤鳳舞作品集37 『うめきち片想い大詩集』 |
2010.2.5 新潟市東区 喜怒哀楽書房制作 非売品 |
<目次>
まえがき 5
うめきち片想い大詩集 7 自作篆刻落款印を贈呈した有名人・著名人・友人リスト 105
鳳舞方寸日記題名集 181 鳳舞郵便物覚え書日記題名集 207
鳳舞写真出展記録集 223 鳳舞展覧会出展記録集 227
鳳舞出演記録集 237 うめきち行動日記 243
梅澤鳳舞実績一覧 267
あとがき 273 梅澤鳳舞略歴 275
最終楽章 〜ディスコグラフイー〜/梅澤鳳舞
音楽をきいている
一曲が三十年の曲をきいている
今その人の十三年前のときの
歌をきいている
私は一曲が長い曲をつくっている
一生で一曲の曲をつくっている
私はステージに立って
ひとりで演奏している
いろいろな人が
演奏に加わり
ある期間一緒に音楽をつくっては
ステージを降りてゆき
大人数でオーケストラのときもあったし
小編成の音楽のときもあった
聴衆がたくさんいたときもあったし
観客席に数人のときもあった
第十五楽章はなだらかな音楽だった
第三十五楽章 第四十八楽章は
威勢のいい楽章だった
私の音楽は今演奏していて
いくらかの人と共演しながら
五十七年続いていて
この音楽は私自身でもきこえるし
人もいっしょに演奏しながらきいている
ステージをながめているだけの人もいる
今はすこしさみしい音楽になっている
この曲は世界初演なので
また私はこの曲の全楽譜を
みたことがないので
いつ終わるかわからない
五十七年間演奏しつづけているので
終わりに近づいていることは
雰囲気でわかる
第五十七楽章のあとの
これからの音楽は
いつかは終わるときがくる
ずっと威勢のいい
楽しい楽章ばかりはつづかない
聴衆はこの音楽がつまらなくなると
一人一人と席を立って出ていって
この音楽がおわったときは
ステージに共演者もいなく
ホールの観客もひとりもいなく
最後の音が消えたときは
拍手もなく
私の音楽は静謐(せいひつ)になる
そんなことを思った
2008年(平20)10.7(火)
(銀河話手帖233号)
「うめきち片想い大詩集」の中から冒頭の作品を紹介してみました。読みながら〈第十五楽章〉〈第三十五楽章〉〈第四十八楽章〉は、それぞれ15歳、35歳、48歳のことであると気づきました。まさに〈世界初演〉の、〈いつ終わるかわからない〉演奏です。最後の〈この音楽がおわったときは/ステージに共演者もいなく/ホールの観客もひとりもいなく/最後の音が消えたときは/拍手もなく〉は、死をイメージしていますけど、それは〈静謐〉な〈音楽〉です。その日まで私たちは、私たち個々の音楽奏で続けるしかないのかもしれません。