きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2009.11.3 足柄峠より箱根・大涌谷を臨んで




2009.11.29(日)


 売却した実家の荷物運びを行いました。買主からは今月末までに明け渡しを、と言われていますので今日がギリギリ。朝9時から夕方5時まで、ミッチリと働きました。行きつけの自動車修理工場から軽トラックを借りてきて、2往復で済みましたが、4本の本箱と30箱ほどのダンボール入りの本で、倉庫も空部屋も一杯になってしまいました。とりあえず運んだ本を、これからどうやって片付けるか、頭が痛いです。

 そんな中での楽しみは、借りてきた軽トラックの運転でした。マニュアル車なのですが、なんと5速。通常は4速で、モタモタ走るというイメージが強いのに、この5速は快調です。以前にも一度借りたことがあって、その時の快調さを知っていましたから、今回も密かな楽しみだったのです。国道246号線を行ったり来たり。大型トラックにも乗用車にも負けない走りで大満足でした。




個人詩誌『蝸牛通信』15号
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2005.7 愛知県春日井市 堀江三智子氏発行
非売品

<目次>
しんどい・夏 1     詩 ら ららら 2    詩 みぞれ 3
ところてんくそたわけ 6 ランディ・マジック 7  つねならむ う 8




 
つねならむ う

 一年前逝ったひとが最期に見た線路脇の桜がこと
しも見事に咲きそして散っていった
病院から駅までの小道はたちまち葉桜の緑陰となり通
勤や買物のひとたちが何事もなく行き交う 世間は何
も変ってないようで変っていく
 意識してもしなくても
 あれから日々贖罪を更新するように暮らしている
身体のどこかひとつぶん空いたままでそこには空も雲
も映らない おそらく雨も
            風も

 拙HPでは初めての紹介になる個人詩誌で、年に1〜2度の発行のようです。紹介したのは詩ではなく、あとがきに当たる部分の冒頭です。後半を読むと、〈一年前逝ったひと〉とはご夫君のようです。〈身体のどこかひとつぶん空いたままでそこには空も雲/も映らない〉というところに亡くした人への思いが凝集されていると受け止めました。〈世間は何/も変ってないようで変っていく〉、〈日々贖罪を更新するように〉などのフレーズに、この詩人の言語感覚の鋭さも感じました。




個人詩誌『蝸牛通信』17号
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2006.9 愛知県春日井市 堀江三智子氏発行
非売品

<目次>

ようこそ… お越しをお待ちします        夢・・荒野
シミュレーション                今朝の秋
長いねむりの・・




 
今朝の秋

その朝、
降りていったひとの まだいくらか凹んだシートの
後ろにへばりつくように それは居た
折り曲げた脚 見開いたままの飛び出た目

扉がしまって電車は次の駅に向かって走り出す
周りの乗客たちは ほとんど気付かない
それほど しずかにひっそり、
清々と草の色で あるがままの素のかたちで
蟷螂、という古典的な名のふさわしい
堂々と長い脚の
かまきり、
そっとのぞきみても、もはや微動だにしない

にわかにきた秋の朝の冷気に おもわず、
人肌のズボンに 長い脚でしがみついたのだろうか
知らず腰をおろした初老の男性のお尻の下
ローカル線の古びたシート
が 最後の褥になった
無残につぶされもせず
何も背負わず 何も抱かず
かまきりは かまきりのままのしずかなおわり

季節は遅くも早くも過ぎていく
いつでもどこでも
風のごとく水のごとく
土のごとく

生きて逝く ごとく
ひとも昆虫も 最後のそれは
さして 変わるまいと思えるような

 この作品は、まず、タイトルが良いなと思いました。〈蟷螂、という古典的な名のふさわしい〉というフレーズからは、この詩人の言語感覚が見えるようです。〈にわかにきた秋の朝の冷気に おもわず、/人肌のズボンに 長い脚でしがみついたのだろうか〉というフレーズには想像力の豊かさを見、最終連からは死生観を見た思いです。その死生観がタイトルにも繋がっていると思いました。




個人詩誌『蝸牛通信』18号
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2007.8 愛知県春日井市 堀江三智子氏発行
非売品

<目次>

水を泳ぐ人       may storm       宮の渡し・途上で
かぎりなく 虚空に
シアワセな時間




 
may storm

鳥が羽を震わせ せわしなく飛び交いだすと
やがて
空の一隅から風が湧き立ち
雨の匂いがしてくる
だれにも遭わない
言葉も交わさない

山と川ばかり眺めて暮らしているので
鳥や虫の動きにも敏感になってきた
雨戸を早めに閉め
水底にしずんだような部屋で
詩を読む
そのうち睡くなって

激しい風雨と雷鳴に交じり
赤子の泣き声がする
おなかを空かせた赤子がお乳をほしがって
泣いている
いそいで お乳を
骨の浮き出た鄙びた乳房をあてがっても
滴も出ない
身をそらして泣き続ける赤子

泣く子の声が あぁ、こんなにも
くっきり残っている
ふと気が付くと詩の頁を開いたまま蹲っている
詩はとろとろ睡いです
横なぐりの雨はつづいている
天地の空気はいくぶん見えるようになったぶん
人から ずんずん遠ざかっていくようだ

人の一生は薄くはかないものです
僅かに悟って 余白の残りを
緑の滴りに処するというのはどうだろう
余白などなかった人のぶんまで
と 決めて
さて

 この作品もタイトルが良いなと思います。〈天地の空気はいくぶん見えるようになったぶん/人から ずんずん遠ざかっていくようだ〉というフレーズにも魅了されます。人間と自然との関係性を視る眼に独特なものがあるようです。最終連の〈余白などなかった人〉とは、15号で紹介したご夫君と採ってよいでしょう。この言葉には胸を締め付けられました。




個人詩誌『蝸牛通信』19号
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2008.10 愛知県春日井市 堀江三智子氏発行
非売品

<目次>

母のDNA       暑気払         壁の話
鳥影
遥か・旅路




 
鳥影

枯れ草の庭に雀の群れがわらわら 降りてきて
わらわら 飛び立っていく そんな晩秋である

茶褐色のかまきりが雨降る冷たいヴェランダの隅で
朽ちている そんな晩秋である

渡りの鳥たちも川のうえを数々越えていったようだ
しずかな朝には 残った数羽の鳥が水浴びしたり
みごとな滑降で水しぶきを揚げたりしている

清々しく流れ 透きとおって透きとおっていたい
なのに ときおり理不尽の風が吹き荒れ
並木の残った葉がいっせいに落下し
川面ににあわない波が揺れる
そんな晩秋でもある

 こちらは〈晩秋〉をうたった作品ですが、一番言いたいのは最終連の〈清々しく流れ 透きとおって透きとおっていたい/なのに ときおり理不尽の風が吹き荒れ〉というフレーズでしょう。自然現象と作者の想いを重ねるやり方が独特でおもしろいと思いました。〈川面ににあわない波が揺れる〉という表現もおもしろいですね。




個人詩誌『蝸牛通信』20号
katatsumuri tsushin 20.JPG
2009.10 愛知県春日井市 堀江三智子氏発行
非売品

<目次>

グッバイ、の 空    水霧          蝙蝠傘
あさきゆめみし     ゆうぐれ かくれんぼ  薄暮のじかん
梅雨 晴れ間      馬           蛙
そんな歳になった    秋隣
たかがされど、二十号




 
あさきゆめみし

ひさしぶりに 母が
わたしの髪を結ってくれた
三つ編みの先が肩に掛かる あの感触
傍らにいる姉が現在の姿なのに
母は 元気で若いころの立ち振舞いである
きびきび動きながら
わたしの耳の変形を指摘し
案じている

ゆめのなかで これはゆめなんだと気付いた
伴侶をなくして以来 のび放題になった髪を
じぶんで結わえている
耳の見慣れない形が気になっていた
わたし自身が 今なのか昔なのか判然としないが
母は ずっと心配してくれていたのだ
変形なんて たいしたことじゃない
心配のたねは もっとふかいところにある
でも だいじょうぶだよ

綺麗好きで働き者だった母は すでに老い
ひがな うたたねをつづける
うっすら ほこりが積もり
うす曇りのような部屋で
いつも独り
ちいさく蹲って
さみしさのかたまりになって

むかしのゆめをみているのか
はるの いちにち
うらうら うら ねむりつづける

 この作品では第3連の〈うす曇りのような部屋〉という喩に注目しました。自然現象を日常生活に採り入れる方法に、独特の才能があるようです。〈変形なんて たいしたことじゃない/心配のたねは もっとふかいところにある〉、〈ちいさく蹲って/さみしさのかたまりになって〉などのフレーズも佳いですね。生命を凝視する視座に共感しました。






   
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