きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2009.11.18 神奈川県松田町・松田山山頂付近




2009.12.5(土)


 今日は地元・西さがみ文芸愛好会の会報『文芸西さがみ』45号の原稿作りをやっていました。43号から私が引き継いで、原稿書き・レイアウト・版下作りを一手にやりましたけど、44号からはレイアウト以降をほかの会報担当委員にお願いするようにしました。今号もそれを踏襲して、私は原稿作りのみ。ずいぶんと負担が低減されています。仕事を分担することで会の運営もスムーズにいくというもの。件の委員さんもそこはご理解してくれていますから、同じ仕事をするにしても気分的に楽になりました。

 が、今号は「会員の活動/消息」の欄が大幅に増えて驚いています。昔の10倍はありましょうか、B5の1頁をまるまる使うほどです。まあ、それだけ多くの会員が色々な場所で活躍しているということ。必要なら2頁も3頁も使えばいいだけの話ですから、会員の皆さまはこれからもどんどん情報をお寄せください。皆さまのご活躍を伝えられることは、編集者としての喜びです。




秋元千恵子氏著
『含羞の人 歌人・上田三四二の生涯
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2005.8.20 東京都千代田区 不職書院刊 3000円

<目次>
はじめに 3
「新月」時代――韻きあう心
背景としての「新月」 10             「アララギ」との出合い 15
「新月」誌上論争 22               佐藤佐太郎と三四二 28
『黙契』――第一歌集
美意識に殉じた一首 33             「黒き序章」――苦悩のなかの自負 45
「青春埋葬」――秘恋のもたらしたもの 52     「療養地帯」――妻子哀憐 60
「旅人歌抄」 67
『雉』――第二歌集
母恋い――その慰撫する心 72
.          暦年の相剋――感情の中ゆくごとき 77
歌風樹立の過程 85
『湧井』――第三歌集
「佐渡玄冬」 88
.                 生涯の転機となった一年 93
大患のもたらしたもの 98            「花信」その私小説的設定 106
『遊行』――第四歌集
序 117                     時を欲りて 118
睡蓮の水と月 122                リビドー点描 125
満月と花 128                  身体の領域 136
日想観 142
『照徑』――第五歌集
浄土への憧れと喩 147              もう一つの『照徑』論 157
『鎮守』――第六歌集
「時」を惜しむ意識 176             「所願」――作品鑑賞 182
遊びの世界という歌境 203            「夢供養」 209
日常詠その挑戦 214               無何有の郷の「矮鶏」 218
終の古里「母」 223
執著――あとがきに代えて 232
.         《参考資料》――上田三四二主要著書一覧 236




 
はじめに
                      
ヽ ヽ
 人間の生涯に限られたことではないが、一つ、ことが終ってはじめて見えてくる全体がある。
 一九八八年(平成元年)一月八日、遂にその生涯を閉じた上田三四二の晩年の歌を読んでいて、それを感じたのである。
 三四二の歌の起点といえば、第一歌集『黙契』である。「黙契」、という命名にしても、かなりの思い入れが感じられる。が、しかし、個人の事情とか境涯に興味を示すというのでなく、一見平明な三四二の歌の、それでいて複雑さを秘めて構築された作品などを、この三四二亡き後に、私なりに深く掘り起してみたいと思ったのである。それには、原点とみる生い立ちの、故郷のことを知る必要がある。
 上田三四二は、大正十二年七月二十一日、兵庫県加東郡市場村字樫山四二九番地(現・小野市樫山町)に、父勇二、母ちさとの長男として生まれた。
 三四二という名は、祖父三四郎により、父の名と合わせて三四二とつけられたという。一人子である。家は地主で、祖父がいくらかの田をつくり、父は小学校に勤務していた。
 小学校五年生のころ、微熱がつづき、肺門淋巴腺炎の診断をうけ、運動を禁じられたことがあり、十九歳の夏には、神経衰弱にかかり、第三高等学校を二学期より休学、翌年の春に復学したこともある。
 このあたりのことは、三四二の年譜に記載があり、創作集『深んど』(昭五六 平凡社)にも、当時の事情が語られている。
 三四二は、父の転勤にしたがってしばしば転校を余儀なくされたが、「をとめ」に寄せるほのかな思慕も、この頃に芽生えはじめた。病気に対する恐れの意識もこのころからのもので、不眠症などの病を誘発したこともあって、睡眠薬も少量とはいうものの、生涯服用するようになったのである。父の転勤、自身の進学、就職、結婚と、次第に遠ざかることになった故郷、そこに寡婦になった母を残して、ついに帰らなかった三四二であった。

 三四二の生家を訪ねたことがある。
 幼い日の三四二が好きだった「白いおばあちゃん」(白髪の祖母のこと)が、朝宵にお経をあげていたという仏間の向こう、母屋と蔵の中間に、鶏を放し飼いにしたり、収穫したものを干すのに通した庭が見えた。
 『遊行』 に次の一首がある。

  祖母が世の朝宵
(あさよ)の信は南無大師遍照のこゑを聴きてそだちきぬ

 また、最終の第六歌集『鎮守』の、昭和六十二年には、「遊鶏」二十五首が詠まれている。世を去る一年余り前の年で、体力的にも困難をともなったであろう連作である。精神力によって支えられた一連といってもいい。

  にはとりが庭にあそべる田舎家にわらべたりし日をかへし矮鶏と居り
  ぼろぼろのをのれを持して矮鶏と居り今生といふことのかなしさ

 まだある。昭和六十三年新春に作られた、「鶏鳴」(五首)。

  もろともに継ぎえしいのちにひどしの鶏はわが掌より朝の餌をうく

「鶏飼ひ」(五首)もある。

 冬の日の陽のさす庭に砂浴ぶとふくらみ伏せばちやぼはかがやく

 この最晩年の歌を見ると、三四二のうつしみは、樫山の生家の庭に佇んでいたとさえ思える。
 本題の道筋から、少しはずれることになりそうだが、作歌の現場を実見したついでに連作についての三四二の考えを知ることも大事なので、断片ではあるがひいてみよう。
「那智の滝」を詠った作品について、〈この自然詠六首を、六号の風景画に比較したい気持ちが私にはある。〉〈自然詠にかぎらず、もっと心理的、内面的な作の場合ももちろん、小は五首くらいから、大は数十首、ときには百首にもおよぶ〉そして、連作という名の安易な乱作の傾向をいさめ、〈モチーフを引き締め、それが一つの詩的世界であるような、連作を心がけたい〉(昭六二 『短歌一生』講談社学術文庫)と結んでいる。 (以下略)

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 短歌には門外漢の私でさえ、その名を記憶している上田三四二の評伝です。帯には<文学界初の上田三四二論!>とありました。
 名前は記憶していましたが実態をまったく把握していませんので、フリー百科事典Wikipediaに頼りますと、

<上田 三四二(うえだ みよじ、1923年(大正12年)7月21日 - 1989年(平成元年)1月8日)は、日本の歌人、小説家、文芸評論家。
兵庫県加東郡市場村字樫山(現・小野市樫山町)出身。柏原中学、第三高等学校、京都帝国大学医学部卒。内科医として国立京都療養所や国立療養所東京病院に勤務。1949年、歌誌「新月」に参加し、アララギ派の歌人として出発。1956年「青の会」結成に参加。歌は愛の声であり、浄念(清い思い)であると唱えた。二度の大病を転機に生命の内面をみつめたとされる。歌会始の選者を務めた。没日は平成最初の日で、平成時代を一日だけ生きて亡くなった。評伝に小高賢『この一身は努めたり  上田三四二の生と文学』(トランスビュー、2009年)がある。>

 と出ていました。本著はここに書かれている小高賢氏による評伝の4年前に刊行されたもので、まさに
<文学界初の上田三四二論!>と言ってよいでしょう。ここでは「はじめに」の冒頭の部分のみを紹介してみました。1968年に「新月」に入会した著者の、三四二没後10年間に渡って執筆したという評伝は、歌人はもとより上田三四二研究者には必読の書と思います。




自解150歌選『秋元千恵子集』
自解・現代短歌シリーズ 第1期
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2003.8.14 東京都新宿区 東京四季出版刊 1800円

<目次>
『吾が揺れやまず』昭和四十三年〜五十八年  3
『蛹の香』昭和五十九年〜六十三年      39
『王者の晩餐』平成元年〜七年        65
『冬の螢』平成八年〜十四年        103
『冬の蛍』以後 平成十四年〜十五年    149
あとがき                 158
略年譜                  159




『吾が揺れやまず』 一九八三年刊

少女たりし吾れに放浪の父なりき「一切空」と言いしのちの死

 父は甲府で小さな製糸工場を営んでいたが、昭和初期の不況で倒産、郷里の家屋敷を売り払い、長野県の下諏訪で再起を図った。
 太平洋戦争が始まると、兄たちは召集され、私と弟は小学生になっていた。戦火は拡大し、母の指輪まで供出させられたりしたが、父は、折よく屋敷を買い戻すことができた。
 戦後、父は村の娘たちを雇い、真綿を使って羽織下をつくったり、がら紡でセーターなどを編んで、県外へ行商の旅に出た。女性遍歴も少なからずあったらしい。
 その父が五十代になって、旅先の千葉で病に倒れた。力尽き果てるように家にたどり着いた父を、母は最期まで優しく看病した。父の死に、柔順な母は涙ひとつ見せず、「ようやく私ひとりのものになった」と呟いていた。


放浪の父と穏しき母の血と分ちて天秤座の吾が揺れやまず

 韮崎の高校時代、授業料を得るために働いたことがある。父方が絹商人、母方が料亭という血を受け継いだせいか、私は働くことが好きだった。
 夏は通学で乗り降りする中央本線・日野春の駅前食堂でかき氷を削り、冬から春にかけては、学校の卒業写真で多忙になる町の写真館に住み込んで、現像した写真の水洗などの仕事を手伝った。試験の時期などは辛い思いもし、母や弟のことを考えると淋しかったが、身の不幸を嘆くようなことは一度もなかった。
 そのころ、林芙美子の『放浪記』を読んで旅への憧憬を深め、三木清の『人生論ノート』で人生観を学んだ。
 結婚後も旅への執着はおさまらなかった。ひまをつくつては旅に出る私に対して、夫は苦情も言わず送り出してくれた。三十
(みそ)路を超えてなお、旅への衝動に駆り立てられる私は、その原因を父の「放浪」のせいにした。


風しまく海辺の市に売られいし子持の魚を過ぎて思えり

 空の闇に明かりが映えている。裸電球をこうこうと灯した魚市場だった。
 一隅に、湯気の洩れる屋台のような店があった。漁師や市場で働く人のための食堂だった。店の人は、旅人の私を詮索する風もなく、取れたての旬の魚をすすめてくれた。大きな椀からはみ出す蟹の味噂仕立てを味わっていると、ガラス戸を打ち鳴らす風も、外の凍える寒さもすっかり忘れてしまう。

  くらぐらと氷雨降りつつ眠る町あゆめばはつか魚の匂いす
  暮れなずむ砂丘の天にひかり満ちここに独りの吾れの小さき

 日本海の荒立ちも、砂嵐も、恐ろしいと思ったことは一度も無かった。訪れるたびに違った表情で迎えてくれる砂丘は、私のこころを浄化し、励ましてくれるのだ。


拒むごとき砂の嵐にふぶかれて修羅なす髪が地に影おとす

 鳥取の砂丘には何回も行った。無気質で人を拒むような砂丘、荒涼とした風景になぜかひかれるのだ。季節によって、また天候によって、刻々と変化する砂丘の表情には、尽きない興味があった。砂丘の歌は百首以上になった。
 上田三四二先生も、私の最初の歌集『吾が揺れやまず』の序文で、「内面の真景は砂丘の彷徨に最良の象徴を見出している」と理解を示してくださった。

  吹かれつつ象
(かたち)変えゆく風紋の砂の自在をかなしみて見つ
  寂しさは生あるものの常なるを吹かれて砂のわれを打つ音

 仕事が終わってから出かける旅なので、鳥取に着くのは未明になる。駅前から乗ったタクシーの運転手は、砂丘の近くで降りる私を、いつも不審そうにながめていた。砂に足をとられながら砂丘をのぼるころ、ようやく浦富あたりから空が明るくなってくるのだった。

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 1983年の第1歌集から2002年の第4歌集までと、それ以降の作品のうち150首を自解した選歌集です。ここでは冒頭の4首とその自解を紹介してみましたが、自解とはおもしろいものだなと思います。帯には<短歌は点と点 解説はそれを結ぶ直線>とあり、なるほどなあと感心しました。文章も洗練されていて、自解だけを読んでも優れたエッセイ集となります。詩の場合はほとんど自解をやりませんが、それは作者本人にも説明がつかない部分がどうしても出てきてしまうからでしょうか。それは措いたとしても、試しても良い手法だと思いました。




季刊歌誌『ぱにあ』74号
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2009.12.8 東京都杉並区
秋元千恵子氏代表・短歌会ぱにあ発行 非売品

<目次>
心に韻く………………………………1…秋元千恵子の歌・長谷川 悠
水原紫苑………………………………2…『世阿弥の墓』虚実に酔う・破・相沢光恵
石川啄木………………………………6…特別な存在・山川純子
俵 万智………………………………10…『サラダ記念日』の青春像・小澤京子
現代短歌時評…………………………14…『康子十九歳戦禍の日記』・福島久男
21世紀の歌……………………………15…金糸雀色(カナリア)・長澤ちづ
歩け歩け・黒部〈30首詠〉…………16…久保田幸枝
作品T………………………………18…五十井まさ枝・長谷川悠・青柳幸秀・石倉秀樹・山川純子・宮坂杏子・福島久男・満冨惠子・丸山弘子・山田美恵・杉野浩美・相沢光恵
特集 小澤京子歌集『アウトバーン』評
日常の延長にある深淵………………24…外塚 喬
足元の実感……………………………26…栗木京子
ブラッド・ブラザース〈30首詠〉…28…小澤京子
                30…『アウトバーン』評紹介
日溜り(15首)………………………34…杉中雅子
異色のふたり…………………………35…竹内千寿子・角 広子
作品U………………………………36…東原妙子・牧内郁代・笹本桂吾・増田美恵子・湯尾喜年子・酒井公子・金坂美恵子・新行内百合子・最上美津子・手塚恵子・秋元千惠子
ハンセン病と短歌U…………………42…愛を詠う・杉野浩美
詞華追想………………………………46…阿部幸夫
樺太
(サハリン)回想.……………………47…久保田幸枝
私の文学散歩…………………………48…山田美恵
和歌逍遥………………………………49…角 広子
時代の視点……………………………50…十八歳はおとなですか・増田美恵子
                52…久保田幸枝歌集『にやぐにやぐ』評紹介
詩歌のマジック………………………54…言葉以前の「自然」・池田 康
表現塾…………………………………56…環境詠・秋元千恵子/介護詠・杉野浩美
作品研究(秋号73)…………………58…久保田幸枝
珈琲ブレイク…………………………60…おたより抄
表紙3・4…編集後記/会員の歌集・著書
表紙・田島和子(焼けた森) 題字・保坂斐雲 カット・杉本ゆうじ




 
しかい
 
死灰 秋元千惠子

みずからの鬱刈るごとし季
(とき)()けし茗荷の茂りに鎌を光らせ
刈り伏せし茗荷の茎の剪り口に戦きにけりその瑞みずしきに
乾く土押し上げ頭
(こうべ)傾ける茗荷子なりき花穂をかざす
取りあげて点る携帯電話機を明かりに歌の一句をつなぐ
除草剤効かぬ草ぐさ現われぬ勢
(きお)いに圧()されやせゆく稲穂
わが庭にまさかよもやのオモダカ草 抜けど生
()えくるあかときの夢
よるべなき魂さすらう里山か老人ホーム焼け落ちにけり
診察はあっけなくすみ待たされしエレベーターが菊の香を吐く
感傷に嵌れば駄目になってゆく己よ歌よ ああわが阿修羅
手火鉢の死灰に仁王立ちしたる火箸ひかりぬうながすごとし

 拙HPでは初めて紹介する歌誌ですが、歌誌名としてはユニークだと思います。誌名についての説明もありましたので紹介してみます。

「ぱにあ」とは ウェブスターのニューワールドデイクショナリーによると、「ぱにあ」は、大きな籠の意味で、特に、背中に乗せて運ぶ枝編みの籠、あるいは、市場で売る品物を運ぶためにロバや馬の背中に乗せた一対の籠の片方とある。語源的にはラテン語から生まれ、パンを運ぶ籠の意がある。
PannierPanier
 この籠には子どもを入れたり、野菜、果物、花なども入れる。
 誌名に、あえて外国の言葉を用いたのは、現代から未来へ続ける希求と、個に埋没することなく常に視野を展げ、新しい表現を目指す、意志であり、素朴で個性に充ち、生命感あふれるさまざまは、会員とその作品の象徴でもある。>

 歌誌をそれほど拝読しているわけではありませんが、ユニークだと思ったのは英語名であったからで、その理由には敬服しました。本誌を拝読して他誌との違いを感じるのは、〈常に視野を展げ、新しい表現を目指す〉姿勢が私なりに感じ取れたからのようです。
 紹介した歌の冒頭は“茗荷3首詠”と呼んでもよさそうです。特に2首目には驚きました。まさに〈瑞みずし〉さを感じます。〈刈り伏せし〉という強い言葉と対になって、斬新な言葉の躍動を感じました。






   
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