きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2009.11.18 神奈川県松田町・松田山山頂付近




2009.12.6(日)


  その1

 午後から新宿の「ジャズバー・サムライ」という処へ行ってきました。「妖異の時代〜百物語2009〜」と銘打った西野りーあさんの朗読会です。他にゲストとして相沢正一郎さんが朗読して、田中一夫さんという方がトルコの吟遊詩人の楽器であるサズを弾いて、ワタナベさんという妖精のような女性がヴァイオリンを弾き、なかなかおもしろかったです。予定の1時間半はあっという間に終わってしまいました。

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 写真はオープニングの西野りーあさん。真っ暗な中を蝋燭1本で登場するという仕掛け。まさに“妖異”の世界です。でも、暗かったのはここまで。あとは最後まで明るい舞台だったのですが、フラッシュなしで撮った写真が気に入りましたのでお見せする次第です。

 終わって、西野さんを交えて何人かと、呑みながら歓談したのですが、その中で西野さんと私の詩は正反対という話が出てきました。その通りだろうと思います。正直なところ、これは西野さんにもお伝えしてあることですが、西野さんの詩はよく判りません。“妖異”の世界は私の中にはないからなのです。でも、西野さんも私もお互いの詩を否定していません。違うということを認め合っているように思います。私は、同じ人間なのに、私と違う感覚や思考回路を持っていることに興味津々なのです。そこで表現されたものは、私にはできない分野なので、ある意味では尊敬さえしています。

 その優柔不断なぐちゃぐちゃな、私の回路がまだ健全に(^^; 残っていることを確かめるために、足柄山くんだりからノコノコ出かけて行ったのかもしれません。良い夜でした。お誘いくださり、ありがとうございました!




中原秀雪氏エッセイ集『光を旅する言葉』
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2010.1.3 東京都板橋区 コールサック社刊 1428円+税

<目次>
T 新年の挨拶
無心 10                    庭 12
洛東江
(ナツトンガン) 14              ザウォセとバガモヨプレイーヤーズ 16
大自然が教える永遠の命 18           馬 22
石見
(いわみ)銀山 24               凧揚げ 26
手仕事と伝統 28                心平の眼と心 32
薪能 34                    石垣の段々畑 36
三万五千キロ歩いた男 38            五感 40
蒸気帆船 42                  とんど 44
表参道ヒルズ 46                「呉」 48
物の見方 50                  「奈良町」考 52
少年期 54
U 伝統・文化・自然が教える
1 隣・近所や地域共同体があった頃 58     2 消費・情報社会に生きる子どもたち 64
3 日本人の幸福観の変化 72          4 家庭での躾と年中行事 78
5 地域コミュニティーの再興と新たな創造を 84
V ひとり立ちへの舞台としての学校
1 子どもを自立させる「装置」 90
.       2 教育における合理主義の課題と豊かな教育 102
3 情報社会の中における「知識」と生き方 108
. 4 タコツボ型の中にある子ども集団と文化 112

公共性の詩学−「光を旅する言葉」を読んで− 金田 晋 118
あとがき 132
略歴 134
表紙銅版画=宮崎智晴




 
無心

 灰ケ峰のとんがった頂に少し雪がのこっている。小学生の頃、そんな風景画を冬休みの宿題にかいたことがある。思うようにかけなかったけれど、無心のひとときは楽しかった。
 絵をかかなくなってずいぶん年月が過ぎた。かかなくていいほど幸せなのか、山や海と会話できなくなっただけなのかわからない。
 ただひたすら自然を見ることに集中できた純粋な時間は何物にも代え難い宝である。
 見ることは、物を知ることよりも愛することに近い情感だったのかも知れないと今になって思うのである。

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 教育委員会教育部次長、公立中学校長、高等学校長を歴任している著者の、2冊目のエッセイ集のようです。帯文は宇宙開発機構宇宙教育センター初代所長の的川泰宣氏。Tは年賀状に添えた〈
新年の挨拶〉が主、U、Vは学校教育の中で講演してきたことなどがまとめられていました。ここでは冒頭の「無心」を紹介してみましたが、〈見ることは、物を知ることよりも愛することに近い情感だったのかも知れない〉という言葉に著者の真摯さを感じます。
 また、「
U 伝統・文化・自然が教える」の中の「2 教育における合理主義の課題と豊かな教育」では〈消費はルールを好まない〉、「V ひとり立ちへの舞台としての学校」の「1 子どもを自立させる「装置」」では〈大袈裟に言えば、人間の生き方の違いは、時間の使い方の違いであると言ってよい〉という言葉も出てきて、感銘を受けました。著者は日本現代詩人会の会員でもある詩人。教育関係者のみならず、多くの詩人たちにも読んでもらいたい1冊です。




詩誌『じゅ・げ・む』22号
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2009.11.30 横浜市港南区    600円
田村くみこ氏連絡先・かながわ詩人の会発行

<目次>
パンタ・レィ−万物は流転する…富家珠磨代 4  邂逅…富家珠磨代 7
幻酒…林
(リン) 文博(ウエンボー) 8         航路〈たまらん 春へ〉…林(リン) 文博(ウエンボー) 10
へその緒…田村くみこ 12            風喩…田村くみこ 14
休日…宗田とも子 16              手紙…宗田とも子 18
【エッセイ】
音楽随想(2)リパブリック讃歌〜…林
(リン) 文博(ウエンボー)19
【読者の作品】
墓石…
(みよし) 洋 23.            月にさよなら…美砂 24
ケンちゃん…大和武 25
【同人雑記】…26
〈富家珠磨代/宗田とも子/林
(リン) 文博(ウエンボー)/田村くみこ〉
全国受贈詩誌・詩集
題字 上野裕子




 
幻酒/林(リン) 文博(ウエンボー)

打ち捨てられた言霊たちを
掬いあげては
俺の笊に
流し込む

卑屈な夢をみる時間は
きっと
自由のありかを
探しあぐねている心地

酵母菌が
夢をみる

奇妙な孤独が
体内をかけめぐる

清浄なる幻の一滴が
俺を見捨てる

打ち捨てられた言霊たちを
掬いあげては
春の突風に晒された
笊の突端に無理やり
流し込む

今日の終わりを
こんなに
悲しむ

世界の終末を
こんなに
喜ぶ

俺の喉を
通り抜けるは
一瞬の美酒

 作者が在日中国人だからというわけではありませんが、李白の詩を思い出すような作風です。〈幻酒〉とは〈俺の喉を/通り抜ける〉〈一瞬の美酒〉と採ってよいと思いますが、そこに至るまでの〈言霊たち〉とのやりとりをおもしろく感じました。その言霊を〈掬いあげ〉るのが〈笊〉であるというのは、詩の不可解さを言っているようにも思います。ささやかな〈今日の終わりを/こんなに/悲し〉みながら、より大きな〈世界の終末を/こんなに/喜ぶ〉のは逆説かもしれませんが、そこにこそ詩人の矜持があるように感じた作品です。




個人詩誌『魚信旗』66号
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2009.12.15 埼玉県入間市 平野敏氏発行 非売品

<目次>
朝の音 1       残音 2        地下鉄 4
歳月 6        獣
(けもの)のおもかげ 7 入間の月 8
後書きエッセー 10




 
朝の音

夜が放擲されて鶏が鳴く
暗闇の森の夢が薄らいで鳥たちが羽ばたき始める
バイクや自動車の数が増してきて
朝は音から始まって
音に慣れ親しむ一日が開かれていく
君たちは聴こえるから音からの朝がやってくるのだ
当たり前が当たり前に開かれて生が過ぎていくのだ

聴こえない人の朝は光だけでしかない
見えない人の朝は音だけでしかない
「だけでしかない」という朝は不幸な朝だ
万人に等しく来るすがすがしい朝というものはないのか
葬式の日でも朝から始まって
仏鈴
(おりん)が鳴り光の向こう側へ死者は渡っていくのだ
聴こえなくても見えなくても
手順の始めに朝があって
どこかで拾われたり捨てられたりしながら
運命の河を流れている

今朝
(けさ)も朝の音がする
さいわいにまだ少し聴こえる耳を澄まして
老眼鏡をかけて外をのぞくと
終着駅の朝支度
ここから始まる人のためにも
墓は清められている
すがすがしい朝の音を秘めて

 〈朝は音から始まって〉くるというのは良い視点だなと思いましたが、それだけではありませんでした。〈聴こえない人の朝〉、〈見えない人の朝〉にまで思いはつながり、〈「だけでしかない」という朝は不幸な朝だ〉と深められています。この感覚は現代詩人ならのものでしょう。思考が自分の身の回りだけで終始していません。〈まだ少し聴こえる耳を澄まして/老眼鏡をかけて外をのぞく〉という自身の身をもとにしながらも、そこに留まらない詩人の姿勢に共感しました。






   
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