きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2009.11.18 神奈川県松田町・松田山山頂付近 |
2009.12.24(木)
今年最後のメタボ対策は、青梅市の御岳山・御嶽神社に登ってきました。御岳登山ケーブルで御岳平まで6分。そこから標高929mの御岳山・御嶽神社までは標高差100mほどでしょうか。ほとんどが平坦地で、神社までのアプローチが長い階段です。私はズルして女坂を登りましたけどね(^^; 御岳平からは片道30分ほどでした。
写真は御岳登山ケーブルのケーブルカー。1本のケーブルの両端に電車が繋がっている釣瓶式というものらしいです。井戸の釣瓶の両端に、桶の代わりに電車がぶら下がっているのかと思うと、笑いがこみ上げてきました。乗客は往復ともに5〜6人。山頂も10人はいなかったでしょう。こんな暮も押し迫ってから遊んでいる奴はいないわなぁ、と思いました。
これで今年のメタボ対策はオシマイ。数えてませんけど、月に一度ぐらいは登ったり歩いたりしたかなと思います。で、効果は…。まあ、現状維持というところでしょうか。増加しなかっただけ良しとしましょう。来年もこんなペースで励みたいです。そして、できればブンガク的な山を、と思いますが、リフトやケーブルカーに頼っているようでは見込み薄でしょうね。
○アンソロジー『小樽詩話会』46周年記念号 |
2009.12.19 北海道小樽市 小樽詩話会・下田修一氏発行 500円 |
<目次>
井上 瑛子[ 6]夢の岸辺 嘉藤師穂子[ 8]呼び止められて
川畑 和嗣[.10]混色のクレパス 仁木 寿[.12]未病
坂本 孝一[.14]黄色い犬の翌日 酒川 忠[.16]忘れられない一つの情景
高田 保子[.18]小さな命 橋本 征子[.20]メークイン
吉田加代子[.22]これで 駆け抜けていく 笹原実穂子[.24]抱く
佐藤由佳子[.26]出会い 金上 由紀[.28]ひるさがりの庭で
櫻井 良子[.30]紅玉 下田 修一[.34]学校で、地球
中野 清子[.36]或る日(未来へ)/或る日(忘れな草)赤井 邦子[.38]プールサイドで
なかの頼子[.40]喫茶店で 入谷 寿一[.42]凍裂の大地
根深 昌博[.44]小樽、ある秋の日のバラード 下川 敬明[.46]幾つもの
三村美代子[.48]室蘭市・地球岬 木田 澄子[.50]ユートピア、そしてユートピア
北 さち子[.52]初秋 谷崎 眞澄[.54]推定の内側
渥美 俊子[.57]初冬 吉川みさ子[.58]編みかけの時間
竹内 俊一[.62]出入口 半井 哲[.64]エレジア/バワリー・ストリート
田中 聖海[.66]放つ 吉田 和弘[.68]ハルース
内藤 千尋[.71]胸の箱 杉本真沙彌[.72]すきま
長屋のり子[.74]巣穴 村田 譲[.78]美園通り二丁目
青柳 和枝[.80]青が弾けた 小野寺 薫[.84]等伯香/−わが家のヘルパー・親愛なる今村良子さんに捧ぐ−
本間 サツ[.87]心をこめてありがとう 高橋 明子[.88]白いホウロウ鍋とトマト
おのさとし[.90]平家蟹 花崎 皋平[.94]勉励と探求
てらいかつお[99]道 暮尾 淳[100]マレンコフ
中筋 智絵[104]葡萄液の夕 萩原 貢[106]初冬の記
高橋 明子[110]雀や猫や(15) 幻の土地 井上 共子[114]バーサンの動物園
[118]二〇〇九年 小樽詩話会例会記録 [119]世話人から
[120]編集後記 [121]会員住所録
竹田芙砂子[ 5]扉カット 船橋 伸允[ 0]表紙
美園通り二丁目/村田
譲
麦わら帽子に染みこんだ
夏のにおいを頭にのせて
夕暮れ真近の時間帯
思い出したような路地に呼ばれる
ここらは見知らぬ横丁だけれども
まだ腕を伸ばせば届いてしまう
重ねたビール瓶のケースと
時代を重ねて揺れるのれん
いつもの毎日に
クーラーの排気口からの
くたびれた息遣い
どこかで見かけた横丁の顔の扉
雨上りの水溜りを
覗きこんだ奥に
ラムネのビー玉のように音たてて
走る――
思い出したか
思いもかけずに
バケツをひっくり返したような
歓声に囲まれて
虫捕り網でひっかけた
黒棒菓子にねりこんだ約束の時間
店のおばちゃんに差し出す
くわえたままの
アイスキャンディの当たりくじ
ポケットを膨らませたセミの声が
笑い声と一緒に飛び出してくる
くちのなかに流れこむ
冷たい潮のかおり
はやくはやくと急かすのは
西の海へ帰ろうとしている太陽と
はやくはやく
蜘蛛の糸にからんだ雨粒が
はやくはやく
夏に溶けてしまうまえに
たくさん掬いあげて
走っていくよ
黄色いひまわりの
傘のしたへ
第2連の〈腕を伸ばせば届いてしまう/重ねたビール瓶のケース〉というフレーズに魅了されました。〈路地〉にある一杯呑み屋のような酒場なのでしょう。〈クーラーの排気口〉もすぐ近くにあって、イメージが鮮やかに眼に浮かんできます。
それから子ども時代が回想されていくわけですけど、〈黒棒菓子にねりこんだ約束の時間〉、〈くわえたままの/アイスキャンディの当たりくじ〉などのフレーズも佳いですね。〈はやくはやく〉という言葉は、なにをやるにしても性急だった子ども時代を見事に表出させています。最終連の〈黄色いひまわりの/傘のした〉という詩語も効果的な作品だと思いました。
○詩とエッセイ『想像』127号 |
2010.1.1 神奈川県鎌倉市 羽生氏方・想像発行所 100円 |
<目次>
ごくらくとんぼ…1
ギリシア紀行−旅日記抄(10)−…井上通泰 2
野山の植物・写真はがき(8)…撮影 菅 泰正 4
8月15日前後…羽生康二 5
わたしの村の小さな小さな夜伽噺(2) ままごとの鳥の羽…おくむらすみこ 7
詩・「夢で」ほか3編…羽生槙子 9
花・野菜日記09年11月…11
8月15日前後/羽生康二
1945年8月9日、ソ連軍が満州国に侵攻した。それから8月15日の日本敗戦までの1週間が、満州国の首都新京(現在長春)に住んでいたわたしの一家の場合どんなだったか、母が書き残したものを頼りに記してみる。
8月9日の夜、新京に空襲があった。空襲警報のサイレンを聞いた記憶がわたしにかすかにある。「九日の夜、初めて防空壕に入りました」と母は書いている。官舎の前庭に急ごしらえの防空壕が作ってあった。
母によると、翌日10日は朝から隣り組の防空演習だった。夕方になって、隣り組の班長が近所の人を集めて、「今は情勢がガラリと変わった。みんな疎開することになる。行き先はわからないが、船に乗って行けるところまで行くんだ。各自家庭へ帰って食料と衣類を持てるだけ用意して待て」と言ったという。ところが困ったことに、わたしの家では兄と妹が赤痢で伝染病院に入院していた。そのため、疎開の用意も手につかず右往左往しているうちにその日(10日)は過ぎた。結局、隣り組単位の疎開は実現しなかった。翌11日の状況を母はつぎのように記している。
明けて十一日はリュックサックにもんペのいでたちで、新京駅の方へ通じる街道は黒山のような行列でした。午後
になると、新京駅まで行ったが殺されそうな人ごみだった、と疲れきってわが家へ帰る人と新京駅へ向かう人とで街道
はごったがえしていました。
この日の昼すぎ、入院していた兄と妹が「みんな退院になった」ということで帰ってきた。この日も前日同様右往左往しているうちに過ぎてしまったらしい。
翌日の13日の午後おそく、役所(印刷局)に行っていた父から電話があり、「紙幣印刷のため役所が吉林に疎開することになった。夜具その他、日々必要なものを最小限にまとめておけ」とのことだった。暗くなったころ印刷局から車がまわってきて、わたしたちは局のそばの宿舎に入った。そして、「印刷の機械を積み込む掛け声をききながら、早く積み込めるのを待ちつつ、三晩も」送った。わたしは何日かそこで過ごしたという記憶があるだけで、あとはおぼえていない。
こうして8月15日になった。印刷の機械を積み終えた車が新京駅へ立ったあと、天皇の終戦の放送があったという。それから新京駅へと向かった。わたしの記憶では、新京駅前の広場にはたくさんの人々が列車に乗るのを待って座りこんでいた。母の文章をまた引用する。
汽車はいつ出るかわからないということになり、印刷局員の家族は第一ホテルに集結しました*。私どもの家族は
長男と長女が病気あがりでしたので、家へ帰っておかゆを食べさせたいということで、駅から官舎へと馬車を走らせ
ました。人々は新京駅へ向かって行く中を私どもの馬車だけ反対側に向かって走るときはさすがに恐くなりました。
……馬車をおりるときいつものように四十銭払おうとしましたら、四円だとおどかされ、四円払いました。ここでは
じめて敗戦とはこんなものかと思い知らされました。
*このホテルで印刷局が缶づめなどの食料をまとめて購入し、分配した。その中にアスパラガスの缶づめがあって、
初めてアスパラガスというものを食べたことが記憶に残っている。
その夜夕食をとろうとしていると、「大同公園まで暴民がきた。すぐ順天小か国務院に逃げるよう」との伝言が隣り組で回ってきた。それで順天小学校(家から10分か15分くらいのところ)に避難し、教室で一夜を明かした。そして、その日から翌年の7月末までの、空白と言っていいような1年間が始まった。それは、それまでと同じ住まいでただ日本に帰ることだけを考えながら、学校にも通わず暮らす日々だった。(以下略)
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このあとに津島佑子『葦舟飛んだ』や藤原てい『流れる星は生きている』などとの関連が記されていましたが、それは割愛しました。「8月15日前後」については多くの書物が出版されていますが、〈わたしの一家の場合〉は、この家族固有のものです。それは似たり寄ったりだという見方もあるでしょうけど、私は固有性こそ大事にしなければいけないことだと思っています。よって作品の前半のみを紹介した次第です。〈いつものように四十銭払おうとしましたら、四円だとおどかされ〉た、〈初めてアスパラガスというものを食べた〉という個人的な事実の積み重ねで歴史が見えてくるのではないかと思う作品です。
○隔月刊会誌『Scramble』103号 |
2009.12.20 群馬県高崎市 高崎現代詩の会・平方秀夫氏発行 非売品 |
<おもな記事>
○高崎の二つの詩碑1・2…平方秀夫 1
○会員の詩…3
志村喜代子/福田 誠/渡辺慧介/横山愼一/谷淵彩菜/遠藤武男/芝 基紘
○詩の朗読会ご案内…8
○各種報告…8
○編集後記…8
秋探し/横山愼一
長雨のあと
今朝の柔い日差しに光る
枯れ草の葉先の滴り
松の小枝を天蓋に
鋳造造りの灯篭に絡みつく蔓草
頂の蔓の間から三角頭にぎょろ目が二つ
こちらを覗いている
季節に逃げ遅れたのか
鎌をかざしたカマキリが一匹
朝から身動きのない不思議
覗くと二つのぎょろ目は白濁色
薄茶に変色した背を押さえて
つまむと枯れ葉と同じカサカサ
いきり立つ夏草に
害虫ののさばりに
散布した除草剤 殺虫剤
もしや・・・
ひもじさのあまりの肉食動物
薬剤汚染にからまれて
奇妙なかたちで途絶えたのか
病んで手抜きの裏庭
立ち枯れの雑草と落葉で満ち
いくさ果てた跡を思わせて
ようやく秋深く
夕暮れにすだく虫の音もなく
闇が流れはじめている
〈季節に逃げ遅れたのか/鎌をかざしたカマキリが一匹〉死んでいた、という作品ですが、その原因を作中人物は〈散布した除草剤 殺虫剤〉にあるのではないかと考えています。その思いが〈もしや・・・〉という1行に表出していると思います。〈病んで手抜きの裏庭〉になった故の〈薬剤汚染〉。それは責められることではないのですが、作中人物の気持ちが〈夕暮れにすだく虫の音もなく/闇が流れはじめている〉という最終連に収斂して、見事な作品だと思いました。