きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2010.1.13 静岡県函南町・丹那断層 |
2010.2.12(金)
その2
○川中子義勝氏著『詩人イエス』 ドイツ文学から見た聖書詩学・序説 |
2010.1.10 東京都中央区 教文館刊 4500円+税 |
<目次>
序 聖書詩学?…3
第一章 詩人イエス ――「神の詩」の存立とその語法について…11
第二章 讃美のはじまり ――啓示への応答としての「うた」…35
第三章 ルター讃美歌の生成 ――「ひとつの死、別なる死を喰らいて」…60
第四章 バッハ・詩と音楽の関わり ――カンタータ第一〇六番「神の時は最良の時」…76
第五章 ドイツ宗教詩と世俗化の問題 ――信仰の歌と問いかける詩…110
第六章 ハーマンにおける「霊(ゲーニウス)」 ――「聖なるもの」の喪失に抗して…136
第七章 聖書詩学と『美学提要(びがくのくるみ)』 ――キリスト教文学における古典古代の伝統とその受容…159
第八章 譬えと物語り ――語り手の問題・賢治にふれつつ…202
結び 現代における信仰詩の可能性…232
後書…239 装幀=熊谷博人
序 聖書詩学?
一、「法」と詩の区分
英語や独語などを習い始めた時のことを思い出してほしい。生徒はまず「私」「君」「それ(彼・彼女)」という人称代名詞の区別を学ばねばならない。これはほとんど総ての人に覚えがあるだろう。しかし「法」の区別については誰もが学ぶわけではない。「法って何?」、「法律のこと?」。そんな問いが聞こえてきそうだが、法律とは違う。「直説法」「命令法」「接続法(仮定法・条件法)」という、あの区別のことである。その概念を知らなくても、こうした呼び方について多少は聞いたことがあるかもしれない。
直説法とは「これはペンです」という初等文法のあの文。発言者「私」の立場から対象「それ」の存在・状態を述べる。「それ」は事物とは限らない。「君はずるい」、「私は美しい」、いずれも直説法。要するに、直説法は文の主語になるものについての叙述の形式。眼目はその事実性・客観性の言明にある。命令法とは、「私」の客観的把握の枠を越えた向こう側「君」への語りかけの形式。相手から期待どおりの応答が返ってくるとはかぎらない。「来い」といっても、「いやだ」という。「我」の裁量を越えた「汝」の応答の可能性は常に残されている。こう書いてくると、接続法の概念について想像がつくだろう。そう、それは「我」と「我」の関係、その錯綜する願望を扱う。その願望が実現可能か否かによって要求話法、非現実話法に区別される。「この件はこう取り決めよう」とか、「もし彼があんなこと言わなかったら」という類。いずれにせよ発言者は、そこで主語となる物事を仲立ちとして、実は他ならぬ自分自身(の心の姿)と向き合っているのである。
ユダヤ教哲学者ブーバーの術語、「我と汝」「我とそれ」を思い浮かべたかもしれない。ブーバーはそれを世界を捉える「根源語」と述べたが、これと通い合う意味で、文法的な「法」の区別も、発言者「我」という焦点から世界を包括的に範疇化するものと言えるだろう。
欧語文法の解説、また哲学のそれを意図しているのではない。ここでは「法」の区別が、詩のジャンルの発生的区分と見事に対応していることを指摘したいのである。事実を述べる直説法の語りが叙事詩を産み、命令法の担う唱和的・対話的世界が劇詩を導き、そして接続法による内面への沈潜が抒情詩の情緒を呼び起こすという風に。発生的には、人間の語法の隅々にまで詩が浸潤していたことが分かる。その可能性の胚胎はやがて、物語や小説、また演劇、それから狭義の詩へと分化し、洗練を加えつつ特殊化していく。
二、近現代詩の「抒情詩性」について
森有正はその遺稿『経験と思想』において、日本語には論理的・客観的叙述の形式が無いという興味深い指摘を述べた。日本語にはここでいう直説法の形式が厳密には存在しないとの謂。「これは本だ」と「これは本でございます」。論理的には同一だが、発議者「我」と対象「それ=本」に加えて「聞き手」の存在が暗示される。聞き手の違い。そのように社会的身分関係などの状況に左右されて、論理的思考が苦手で、論争も真の対話もできないという日本人の問題性は、日本語の特徴そのものに由来すると森有正は言う。
つねに状況を付加する日本語の言明においては、その状況下の発言者のありかたが絶えず意識させられる。そこではつねに発言者=主観への過大な注目が伴う。この主観性への偏りという日本語の特徴は、詩に関しては、例えばすべてが抒情詩と化すという、日本語詩の発展の問題として現れる。叙事詩や物語、また劇が存在しないというのではない。その発展と洗練は、散文詩のような私小説や独り芝居への昇華として帰結しがちだということ。それは単なる傾向としてではなく、日本文学の本質の問題として問われねばならない。
山本健吉はその「詩の自覚の歴史」や「抒情詩の運命」(『古典と現代文学』一九五五)において、長歌から短歌が、連句から俳句が生まれてくる過程を論じている。民衆の生命的基盤を担う様式がその頂点に達する時に、その貴族的な洗練が始まる。その際の形式的な純化・個性化は、しかし、様式そのものの死を導き、詩はより自己閉鎖的なモノローグの空間で洗練の度を深めていくと。また「詩における人称の問題」として、本来一人称を原則とする詩も、挨拶などの形で人称の重層化の可能性を胚胎していたが、抒情詩的純化はそのような二人称的発想・詩劇的発想の締め出しを意味したと。さらには、世俗的対話劇としての猿楽の要素が狂言に局限され、能が、シテの一人格の分裂という幽玄の理念による抒情詩的世界として結晶するのも、これに呼応すると(「詩劇の世界」)。
山本健吉の立論への賛否は別として、日本文学の抒情詩性という指摘には耳を傾けるべきであろう。そしてそれが、単に伝統の問題だけではなく、日本語自体の構造の内にも根を持つというのが、著者の指摘したい趣旨である。とすれば、抒情詩の問題は、日本の詩人によりいっそう自覚的な対応を求めているとは言えまいか。
洗練による抒情詩化という問題は、なるほど日本文学において顕著ではあるが、日本文学にのみ局限されるものではない。近代的個性による文学の洗練と同時にその衰微の関連は世界文学全体の問題である。それはしかし、詩を考える際に、抒情詩の問題(それも日本の抒情詩の問題)だけを考えていては駄目だということを意味している。いわゆる「近現代詩」がすでに様式として確立されたものであるかどうかは知らない。「現代詩」の危機や将来について語られる。いわゆる「抒情詩」には「社会詩」を対置すれば問題は解決するのか、しないのか。詩の「想いの世界」が「事物の世界」に至りつかない。それは、一ジャンルの内側の問題ではない。むしろ、詩の発生以来の伝統への問いとともに、言葉の根源への反省と実践を求める問題であるように思われる。
たとえば、抒情詩の個性化の途を遡行するかたちで、狭義の詩の分化以前に言葉が本来発生的に有していた様々な可能性を辿りなおすこと。現実世界の多様性と切り結ぶ他の言語態との境界を自覚的に踏み越えていく。そこに抒情詩のモノローグ的閉鎖空間化に対し、自覚的に対処していく一つの可能性があるかもしれない。
三、ドイツ文学から振り返る
言葉の仕組みや近現代詩の問題性についてのこのような反省は、著者が外国語、ことにドイツ語に親しみ、ドイツ文学研究に携わってきたことから導かれた。本書はそのような観点からもう一度文学を、ことにドイツ文学に即して、振り返ってみようとする試みである。その際に、著者が初めからひとつの偏りを前提とすることを、予め述べておかねばならない。著者にとって大切なのは、文学全般の様態を見渡すことではなく、文学(詩)の本質や起源を問題にすること。人間にとって言葉とは何か、言葉で表現するとは何かという問いが、探求の動機のほとんどを占めている。本書においては、文学史について項目を網羅的に並べていく関心また忍耐を欠くがゆえに、いきおい叙述は、発想と約説の集積という体裁をとらざるをえないだろう。しかし、それは探求の真摯の凝集する処にこだわり、密かに水脈をたどり、系譜を跡づける営みとなるはずである。
著者は長年、十八世紀ドイツの思想・文学の研究をしてきた。その経験に立って、ひとりの思想家の導きを頼みとしている。読者はヨハン・ゲオルク・ハーマンの名をおりおりに目にするだろう。副題に「聖書詩学」という言葉を掲げていることも彼の思想に由来するが、この言葉には予め説明を加えておく必要がある。本書は聖書と詩を結びつけるが、その場合、聖書の詩、例えば旧約聖書『詩篇』に収められた詩や、聖書の記述に嵌め込まれられた詩を専ら問題にする意図はない。その仕事は神学という学問分野に任せておけばいいし、すでに多くの聖書学者が十分にこれを行っている。本書ではヨーロッパ(ことにドイツ)の歴史において、聖書が文学(詩)に関わったその関わりが問われる。文学一般ではなく「キリスト教文学」が主題となるわけだが、ここでも文学がキリスト教に接していれば総てを扱うのではない。内容・形式ともに詩が聖書に深く関わる、その凝集の焦点を「聖書詩学」と呼ぶことになるだろう。その際に、本書では、聖書と詩が関わるその意義を「汝」が語られるところ、すなわち「二人称」的な言葉の関わりに見定めている。そのような言葉の消息と系譜を辿りながら、二人称的世界の可能性を求めていくことになろう。
すぐれて抒情詩的な言葉、すなわち語り手の一人称による自己表出のみが詩の神髄であるとしたら、言葉が信の要素と切り結ぶことは、詩の問題に不純なものを持ち込むことになる。だが、「すばらしい」という感動の「自己表出」も、風景や自然の事物など(漠然としてはいても)何か自己の境を越えたものとの出会いが先立ち、これこそがその表出を可能としているのではないだろうか。そこに「汝、おまえ」という表現が現れずとも、そのような関係の志向を「二人称的」と呼ぶことにする。このような存在への素朴な信の彼方に、これらを支える超越者への信を巡る関わりが生起する。聖書の伝える根源の発語「光あれ」や「これぞ我が肉の肉」はまさしくそのような関わりから語り出される。「言葉の起源」や「信の起源」のみならず、聖書詩学の出発点もまた二人称的といえよう。二人称言語の先駆性に立脚して本書は聖書と詩(文芸)の関わりを問い直していく。
第一章は「詩人イエス」と題される。ドイツ文学を扱うと述べて、いきなりドイツ文学から離れる印象を与えるが、「詩人イエス」という呼称の地平は、第七章に至って明らかにされる。ここでは専らイエスの言葉と活動の姿を見つめて、以降の叙述の縦軸・横軸を見出しておきたい。本書の前半は讃歌の起源と本質を記し、後半は対峙する者の言葉、預言者的発話の動態を扱う。著者はそこに、第一章との呼応を見ているが、章立ての構成もまた第一章によって据えられている。讃歌も預言者的発語も対峙者、「汝」を指し示す。こうして本書全体の叙述は、抒情詩的閉鎖空間を越えて二人称的世界を復権していく方向へ、秩序づけられていく。「聖書詩学」は、「詩人イエス」より出で行き、返り来る。書名とした謂われはそこにある。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
〈長年、十八世紀ドイツの思想・文学の研究をしてきた〉東大教授であり、詩人の詩論集ですが、“詩論集”とだけ括ることはできません。文学論・文明論・神学論などを合わせ持った論集ということができるでしょう。ここでは「序」の全文を紹介してみました。本著の意図と性格を端的に述べています。第一章以降は、詩学や哲学の基礎知識がある程度必要とされるかもしれませんが、読みやすい文章ですから、注釈も参考にしながら読み進めることができます。中に聖書の言葉が多数引用されていますので、私は聖書を傍らに置きながら拝読しました。クリスチャンではない私にとって、聖書を繙く絶好の機会でもあったわけです。また、「第八章 譬えと物語り ――語り手の問題・賢治にふれつつ」の一部は、日本詩人クラブ発行の[詩の学校講義録『世界の詩を愉しむ夕べ』(2008.9.1発行)]にも載っていますから、お持ちの方は参考になさるとよいでしょう。クリスチャンで詩人という方には必読の書ですが、そうでない人にも、現代詩とは何か、現代詩はどこを目指すのかを示唆する好著です。お薦めします。
○個人詩紙『おい、おい』74号 |
2010.2.8 東京都武蔵野市 岩本勇氏発行 非売品 |
<目次>
お前はお人好し
お前はお人好し
あの世から
どうやって抗議する?
この世はすべて
不平等
(おお! 当たり前!)
ヒヒジジイが乙女を犯し
札ビラ持ちが
己の尻の穴を
金なしに
なめさせる
だからって
バチが当たるか?
(私にふりかかる際は私の超力でいつもバチを当ててきたが)
虫けらのように殺されていって
だからって
どうやって
あの世から抗議する?
ちょっと品のない表現もありますが、考えさせられます。〈この世〉の〈不平等〉や〈虫けらのように殺されてい〉くことを、〈あの世から/どうやって抗議する〉のか。これは人類始まって以来の設問かもしれません。その疑問に答えられずにこの世を去る私たちを、〈お人好し〉と規定すること。実はそれが解決の糸口だとこの詩は訴えているように思います。岩本勇詩らしい切り口の作品だと思いました。
○詩誌『砧』41号 |
2010.2.25
神奈川県相模原市 小町よしこ氏ほか発行 500円 |
<目次>
愛しのオンフルール 松崎 縁 4 じかんの居場所 倉田史子 6
鎌倉行き・ほか 来楢美津子 8 秋海棠 斉藤利江 10
留守 山本みち子 12 蝋燭 加ヶ谷喜美子 14
六道の途中で 水野浩子 16 金盞花 小林俊子 18
ひらひらと 大城友子 20 コスモス ねもとよりこ 22
季節の調律 小町よしこ 24
編集後記 26 同人住所録 27 表紙題字 松井さかゑ
じかんの居場所/倉田史子
六十分たつと
メロディーがながれ
振子がわりの人形がくるくるおどる
あたらしい部屋の掛時計
あかりに反応するそれは
夜 カーテンを引くと音を閉じる
光の朝にはテレビの時報と同じじかんをつれてくる
でかけて誰もいなくなったときでも時計の人形はうごくのだろう
じかんよ
針に居場所を教えているのか
「また 鳴ったねえ」
二歳の孫が目をまんまるにして音を見上げる
「一時間 たったんだね」
「一時間って なあに?」 あどけない問い
見たことのないじかんを
数字の合間でわかった気になっている大人
部屋のとびら
書棚の本たち
そこにじかんはいない
生きて 呼吸をするものにだけ
こっそり居場所を教えているのだ
まどの外では
紅や黄に装いだした木々に
時がやってきている
たしかに〈一時間って なあに?〉と問われると戸惑ってしまいますね。私たちは〈見たことのないじかんを/数字の合間でわかった気になっている〉だけですから。物理的には地球の自転や光の速度から説明できるのでしょうが、それはあくまでも便宜的なもの。時間の本質は何かと問われると、〈紅や黄に装いだした木々〉の時間や、忙しい人や閑な人での時間の流れ方の違いなども考えると、回答困難というのが現実かもしれません。この作品は、さらに〈じかんの居場所〉を設定していますから、ますます問題の根に迫っていると思います。〈生きて 呼吸をするものにだけ/こっそり居場所を教えているのだ〉というフレーズに、ひとつの回答があるとも読めるかもしれません。〈二歳の孫〉から突きつけられた質問に考え込んでしまった作品です。