きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2010.2.25 神奈川県南足柄市・枝垂れ梅 |
2010.3.8(月)
西さがみ文芸愛好会の「第14回西さがみ文芸展覧会」最終日。通常は17時閉展ですが、最終日の今日は15時でオシマイ。あとは片付けに掛かりました。その後は恒例の懇親会。会場にテーブルと椅子を並べただけの簡素な懇親会ですけど、私は呑めませんでした。特別展に使った資料はとりあえず拙宅に運ぶことになっていましたから、クルマで来ました。久しぶりに皆さんがお呑みになっているのを横目で、、、クソッ!(^^;
席上、今回の来場者が累計で400人近かったことが報告されました。通常は300人ほどですから、特別展「播摩晃一の足跡」の効果かなと思います。
写真は懇親会の後で。たまには集合写真を撮ろうじゃないかということになりましたけど、会としては初めてだそうです。そうですね、いつもはバタバタと片付けてバタバタと呑んで…。最近忘れられている“記念写真”を久々想い出した1葉です。
6日間という長いような短いような会期でしたが、無事にトラブルもなく終えることができました。担当の一員としては嬉しい限りです。ご協力いただいた会員の皆さま、おいでくださった皆さま、本当にありがとうございました!
(さて、来年の特別展は何をやろう?)
○個人詩誌『魚信旗』69号 |
2010.3.15 埼玉県入間市 平野敏氏発行 非売品 |
<目次>
繋がって・・・ 1 眼の応援 4 犬の足跡 6
摩訶言葉 8 春の器(うつわ) 9
後書きエッセー 10
春の器(うつわ)
時は春のうつわに盛られている
ありがたいことである
きょねんの病で萎(しお)れていくはずだったのに
少し水を吸い上げる力が出てきて
春の水音を聞き分けたら
とたんに紅白の梅の賑わい
鳥の艶やかな美声に誘われて
病臥を離れて
春の野に出てみる
再生ということばが脳をよぎる
にんげんのわたしの脳の野に春が満ちる
すでに菜の花の群生もあり
すっかり春のうつわに盛られる
ことしの展開を占うことよりも
いまここにある春の恩寵に全霊を漬(ひた)す
見えない背中の順番のことなど
気にしないで野を歩いてみる
老いの足腰のこともあるのでゆっくりと歩いていく
春の眉月がふくらんでいき
わたしの願いが満願するまでにかがやいて
ただそれだけの春の月であればありがたいことだ
春のうつわに盛られたうれしさを
素直に喜べる境地まできた
つながっているしあわせ
ことしもまた春につながって
間もなく桜に染まるいのちの尊(たつと)さを
春のうつわいっぱいに広げるだろう
「春の器」というタイトルから良い詩だなと思います。〈わたし〉は〈きょねんの病〉があったから、余計に〈春のうつわに盛られたうれしさ〉を感じるのでしょう。〈つながっているしあわせ〉という詩語にも実感があります。〈紅白の梅の賑わい〉で幕を開ける日本の春を、抑制しながらも抑制しきれない喜びが伝わってくる作品です。
○詩誌『ガーネット』60号 |
2010.3.10 神戸市北区 空とぶキリン社・高階杞一氏発行 700円 |
<目次>
詩
神尾和寿 海の生き物/楽器の色々/赤/居並ぶ人々 4
阿瀧 康 春 8 廿楽順治 段鳩/鯖/鳥のよしだ 12
池田順子 空/いきたい 18
高階杞一 老人と犬/散歩道 70 大橋政人 ナマズを見ていた/アリアリバア 74
やまもとあつこ 雪の声/快晴 78 嵯峨恵子 日曜クラブ/煎餅をくれる男/一日 82
特集●現代詩 この20年
論考 現代詩 この20年の意義
野村喜和夫 この20年を振り返って詩はその弱い力を解き放つ過程がいまもつづいているであろう 22
阿部嘉昭 複声性/変圧器/聴像性 26
須永紀子 新しい詩を生むために 30 山田兼士 二十年の懸垂 四元康祐(まで/から)の現代詩 32
廿楽順治 この二十年の死後 34 大橋政人 吉本隆明×まど・みちお 36
嵯峨恵子 二十一世紀になれば? 40
アンケート この20年の詩の変遷 42
藤富保男/新井豊美/福間健二/八木幹夫/鈴木東海子/愛敬浩一/松下育男/貞久秀紀/北川朱実/富沢智/萩原健次郎/岩佐なを/四元康祐/岩木誠一郎/細見和之/金井雄二/立野雅代/奥野祐子/杉本真維子/小笠原鳥類/竹内敏喜/久谷雉/白井明大
座談会 ガーネットの20年を振り返る 50
シリーズ〈今、わたしの関心事〉NO.58 88
阿瀧康/池田順子/大橋政人/神尾和寿/嵯峨恵子/高階杞一/廿楽順治/やまもとあつこ
詩集から NO.58 高階杞一 92
●詩片●受贈図書一覧
ガーネット・タイム 104
伊太利屋 廿楽順治 カミヤ(神屋?)君のこと 神尾和寿
ロング・スリーパー 嵯峨恵子 言葉が通じない? 高階杞一
絶対安全剃刀 池田順子 谷川俊太郎サンが「ガーネット」三号を右手にかざして 大橋政人
かしこいね〜 やまもとあつこ 冬から春へ 阿瀧 康
あとがき 112
海の生き物/神尾和寿 Kamio Kazutoshi
海の生き物たちが
死んで
並べられて
大量に売られている
買い物かごへ次々と放り込まれていって
長ネギやチーズの塊のなかに埋もれていく いずれは
栄養となって
団欒にもなって
陸の上の家庭の 電球に
白い明かりを
点す
その下に机を運んできて
納得するまで 勉強をする
影が揺れる
今号の巻頭作品です。〈海の生き物たちが〉最終的には〈陸の上の家庭の 電球に/白い明かりを/点す〉ところまで展開するのがおもしろい詩ですが、〈納得するまで 勉強をする〉というフレーズがポイントではないかと思います。〈海の生き物たち〉の恩恵を受けて、〈その下に机を運んできて〉私たちは勉強しなければならないのかもしれません、〈納得するまで〉。そうしないと、私たちの栄養となった生物に申し訳ないと思わされます。最終連の〈影が揺れる〉は、死んだ生物たちの影と受け止めました。
○『栃木県現代詩人会会報』59号 |
2010.3.1
栃木県塩谷郡塩屋町 和気康之氏方事務局 非売品 |
<目次>
詩人には怒られそうだけど/戸井みちお 1 平成二十一年度総会報告 2
研究会・懇親会 3 会員へのアンケート 5
平成二十一年度役員会 7 平成二十一年度受贈会報 7
受贈詩集その他 7 編集後記 8
詩人には怒られそうだけど/戸井みちお
詩は屎である。では少々詩がかわいそうか。ならば、詩は屍である。美しい屍。それなら詩も少しはうなずきの頬をゆるめてくれるか。
人はそれぞれ詩への思いを持っているのであろう。それが屎であれ屍であれ志であれ思いであれ、言語で表現し発表する以上それは読まれることを前提、いや読まれることではなく読んでくれることを前提にして発表しているのであろう。
しかし、ふと開いた本の中に詩人谷川俊太郎の「正直に言うと」という短文をみつけた。その中で「この世にもし音楽がなかったら、私は生きていけないかもしれない。だがこの世に詩作品がなくても多分私は生きていける」と。正直である。私もそう思う。それなのに、なんで詩なんか書くのだとおきまりの質問がとんでくるだろう。谷川氏はつづけて書いている。「私は他人と共有できるものをつくりたかっただけだ。それがたまたま詩だっただけだ」それは自動車作りであっても野菜作りであってもよかったのだと言う。なんとなく体質に合っただけだと言うのであろう。
そうである。紙と鉛筆があればいい。絵具を買う必要もない楽器を手に入れる金もいらない。安上がりである。屎や屍はそっと机中にでもしまいこんでおけばいいのに、それを共有してもらおうなどと言うだいそれた心を起こすから金がかかる。
金をかけて発表する以上は読んでもらいたい、思いを共有してもらいたいと言う下心あってのことだろう。
ならばである。華麗なる演技も絶妙なるひねりも必要なのに、詩人は横暴横柄尊大高慢、それを個性とか孤高とか一途とか言う言葉で糊塗する。それは横着と言うものである。
浅草の芸人は出たとこ一分の勝負と言う。落語万才しかり。だんだんよくなる法華の太鼓までは待ってくれない。詩など読むよりひそかに読むエロ本の方が余っ程面白いでは淋しいかぎりと言うならば、屎であれば馥郁たる香りを、屍であればいとしくも頬ずりされる屍を。その為にも最初の一行を一途に――であると思う。
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今号の巻頭言を紹介してみました。〈詩人は横暴横柄尊大高慢、それを個性とか孤高とか一途とか言う言葉で糊塗する〉という言葉は耳が痛いですね。〈それは横着と言うものである〉という指摘も肝に銘じなければならないでしょう。〈だんだんよくなる法華の太鼓までは待ってくれない〉という言葉には瞠目させられました。“お客さん”はそんなに我慢強くないのです。いつまででも我慢してもらえるという甘えがどこかにあるのかもしれません。考えさせられました。