きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2010.3.18 早稲田大学・演劇博物館




2010.4.4(日)


 奈良2日目。昨夜の宿泊組と奈良国立博物館に行って「大遣唐使展」を観てきました。国立博物館は、たしか2回目か3回目だと思いますけど、相変わらず広い展示場だなと感じます。上野の方が広いのかもしれませんが、なぜかそう感じてしまいます。まあ、どうでもいいことですけど…。で、肝心の「大遣唐使展」は、歴史の重さを感じました、、、程度でゴマカシます(^^;

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 写真はホテルのロビーで。驚いたことに背景の絵はすべて森ちふくさんの作品です。森さんが油絵も描くということを知りませんでしたし、その絵をホテルが飾ってくれるということに驚いています。相当強いコネクションがあるのか、奈良のホテルは開放的なのか分かりませんが、おもしろい土地柄だなと思いますね。ますます奈良が好きになりそうです。

 京都からは午後早めの新幹線で帰宅しました。のんびりできた小旅行です。呼んでもらえて良かったです。森さん、ありがとうございました!




乾夏生氏著『父の声 路上の母』
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2010.4.6 東京都豊島区 創栄出版刊 星雲社発売
1429+税

<目次>
父の声…………………………………………3
私の靖国………………………………………63
白鳥を見に行く………………………………137
路上の母………………………………………183
熊谷史朗氏のこと −あとがきに代えて…230




 熊谷史朗氏のこと ――あとがきに代えて

 熊谷史朗氏の所在を知り、父のことを問い合わせたのは、平成十五年六月だった。
 私の父は関東軍第一〇七師団野砲兵方第一〇七連隊に属し、昭和二十年八月十三日に、旧満州(現在の中国東北部)で戦死している。熊谷氏は第一〇七連隊の元第一大隊長で、父はその指揮下にあったのである。
 父は私が生まれた七十日後に出征したから、私は全く父を知らない。肉感的に知らないから私の気持は乾いていて、父のことを思いめぐらしたこともない。そんな私が、父のことを知りたい、と思ったのは、たまたま母が言ったことがきっかけだった。
 母は出征する父を、秋田県大曲駅まで送って行った。父は眠っている赤子の私を見やって、「こいつ、眠ってやがる」と言い、それが別れだったという。私はふと、父の肉声が立ち上がるのを感じた。それから、私は父の戦死の経緯を調べ始めた。しかし、五十八年も経っている。さほどの結果を期待したわけではなかった。熊谷氏との巡り会いのいきさつは「父の声」に書いたが(作中では藤代氏)、思い返せば奇遇に近い。
 熊谷氏から、父の戦死の状況を知らせる長文の返書をいただいたのは、平成十五年六月二十一日である。昭和二十年八月十三日、新京(現在の長春)へ転進中の第一大隊はソ連軍戦車の攻撃を受け、私の父は肉迫攻撃中に戦死したという。肉迫攻撃とは、十キログラムの爆薬を抱えて、敵軍のキャタピラーの下へ投げ込むのだという。

 当時、熊谷氏は九十歳、心臓疾患で入院されていた。正確を期すべく、旧戦友に問い合わせ、参考文献をあたり、ご自身の記憶をたどって書いた、とお手紙にはあった。作品には書かなかったが、私は読みながら、だしぬけに涙が流れた。感情は伴わずに、生理的に涙だけが流れた。あの涙の意味あいは、今もって判然としない。
 私は一方で、熊谷氏の年齢に衝撃を受けた。私の突然の手紙は、高齢の熊谷氏に負担を強いたのではないか? 熊谷氏とはその後、四回ほど手紙のやりとりがあった。電話番号も書き添えていただいたが、私は電話するのを憚った。
 私は思い迷った後に、近くまでお訪ねするから、お目にかかれないだろうか?と手紙を書いた。千葉県在住の熊谷氏からは、夏が終わる頃には、一人で歩けるほどに快復するだろうから、時期をみて連絡する、東京のどこかでお会いしたいと念願している、という葉書をいただいた。それが八月六日付で、以来音信が絶えた。せめて私から電話して、お声だけでも伺えば良かったと悔いが残る。
 熊谷氏の私への懸命な対応は、戦争体験が当事者にとって、決して風化せずに生き続けている証左だとも思える。元部下の遺児である私の問い合わせは、熊谷氏を戦時の記憶へ、痛覚を伴って引き戻したのではないか。当時の私は一種の興奮状態にあり、多くそのことに思い至らなかった。熊谷氏をはじめ、私の父親探しの道標になっていただいた方々に、心からお礼を申し上げねばならない。

 私は三十代初めから、故森田雄蔵氏主宰の同人誌「小説と詩と評論」に小説を発表するようになった。森田氏が亡くなった後は、当時の仲間である遠野明子さん発行の「槐」で作品を書いてきた。数年前から、自分なりに推敲して、一冊だけ本を纏めたい、と願うようになった。私が六十歳を過ぎて、残された時間の少なさに迫られだしたからだろう。
 収録した四篇はいずれも、一組の「母と息子」を書いている。彼らの境涯の背景には、戦争がある。しかし、それだけではない。母と子の関係は無垢の人間関係に相違ないが、彼らが抱えているエゴイズムが反射し、様々な図柄を描き出す。どの作品も、私事の色彩が濃い。作者の思い入れがいかにあろうとも、第三者が関心を保って読み得るかは別の事柄である。お読み下さる方に恵まれれば、幸いに思います。

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 4編の小説の性格を端的に述べたあとがきを紹介してみました。まさに〈収録した四篇はいずれも、一組の「母と息子」を書いている〉もので、その〈彼らの境涯の背景には、戦争があ〉ります。〈しかし、それだけではな〉く、〈彼らが抱えているエゴイズム〉までも描き出した傑作と云えましょう。戦争による被害は人間の運命を大きく変えてしまいますが、しかし、そのことによってエゴイズムまで消え去るものではないということを教えてくれているように思います。

 余談ですが、著者のお名前は筆名です。真夏の7月生まれ。〈私の気持は乾いていて〉夏に生れたからお付けになったのかと愚考しました。




詩誌『弦』47号
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2010.5.1 札幌市白石区 渡辺宗子氏発行
非売品

<目次>
論理と情緒13 −恋人までの距離(デスタント)/畑野信太郎
詩 非の方へ 象/渡辺宗子
  耳の商人(二)/渡辺宗子
童話のほとり アリスの兎穴(四)/渡辺宗子




 
非の方へ/渡辺宗子

  

己の果てへ のっそり
巨大な躰が歩み出す
山脈を跨いで邑の途中
さよなら をする
因縁の関わり
兎とも蜥蜴とも体質が違うので
どこまでも一緒に歩けない
同じ棲へ入れない
  のっそり 歩み出す

日射へ向って伸び上がる空の逆
花の裏をくぐり
八巻きの ひょっとこ・おかめの面
踊りおわってどこへ消えるか
華やぎの隠れ蓑を脱ぐと
他者のない独断が生きる

稔りと終結のとき
思考を持たない身軽さ
昨日と明日を無縁にする
柔軟な抵抗のない領地へ
種族へ決別する象
生命を絶望する象
アフリカの源泉へ戻るのか
潤う夢をわずかに食して
存在を薄く漉いていく

常度と常居を畳んだ
霞の館へ旅をする
尻尾が切れ 耳が断れるところまで
傾斜した道のりを
  のっそり体重を落していく
数億年を経て脈絡する
先祖の種子の基へ
不老不死の領域だろう
菌糸に曳かれているだろうか

いま より生きることも
いまより死ぬことも許さず
自然な歩行の柔軟
平原の岩影か
川の始流か
棲むという名残りに
不明の背柱の痕跡
絶縁の地で
がっくりと 脚をたたんだ

 連作のようです。〈象〉の生と死から見えてくるものは何かを考えさせられます。それはそれぞれの行に屹立していますけど、なかでも第2連の〈華やぎの隠れ蓑を脱ぐと/他者のない独断が生きる〉、第3連の〈昨日と明日を無縁にする/柔軟な抵抗のない領地〉などのフレーズが特に重要なように思います。象も人間も寿命は近いので、その生死も近いのかもしれません。そんなことを考えた作品です。




個人誌『風都市』21号
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2010春 岡山県倉敷市 瀬崎祐氏発行 非売品

□目次
水の場所・視・・・・・瀬崎 祐
夏の目方  ・・・・・北川朱実
ベルリンの夜・・・・・瀬崎 祐
□寄稿者 北川朱実
      詩誌「石の詩」「青い花」「この場所 ici」同人
□写真・装丁 磯村宇根瀬




 
水の場所・視/瀬崎 

黄昏れどきだから
見えないものを想うことは
やめる

ちょっとおどけて
肩をすぼめて
ためていた息を吐きだすと
沖に停泊していた旅客船の輪郭がぼやけた

名前を失ったものたちが
叫んでいる

まだ足りないのだろうか
もう
色合いも定かではないというのに

とどけられた風信には
風切り羽根の匂いがしみている

 〈水の場所〉を〈視〉る、あるいは〈水の場所〉が〈視〉えるというイメージでよいのかなと思います。第1連の〈黄昏れどきだから/見えないものを想うことは/やめる〉というフレーズはおもしろいですね。〈視〉えているときは〈見えないものを想〉ってもよいが、〈視〉えなくなったときは〈やめる〉というのは、一つの哲学と云ってよいでしょう。〈沖〉という〈水の場所〉にあって、見えているもの、見えないものを感じればよいのだろうと、私なりに思った作品です。






   
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