きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2010.3.18 早稲田大学・演劇博物館 |
2010.4.15(木)
その2
○詩誌『展』76号 |
2010.3 東京都杉並区 菊池敏子氏発行 非売品 |
<目次>
●蓮の脛:菊池敏子 ●いつ どこに:山田隆昭
●うしろめたい 花見:河野明子 ●母の帽子:名木田恵子
●力になる:五十嵐順子 ●みんなでひとこと
母の帽子/名木田恵子
四〇年も前に亡くなった 母の
帽子をかぶってみる
千鳥格子の小さなつばのある 黒い帽子
帽子に当てた手を しばらくおろすことができない
こんなに母の頭は小さかったのか――
ずっと 母は
わたしより大柄なひとだったと思いこんでいた
わかっている
生きることは 棄てていくこと
いつまでも持ちつづけることはできないのだ なにもかも
思い出さえ いつか
わたしとともに消えていく
わたしの大切なものたち
別れを惜しみながら 少しずつ身軽になるたびに
視界が開けてくる
その先にかすんでいる景色は ほんやりと美しい
母の帽子を また 古い箱に納める
あと少しのあいだ 娘でいたことを忘れないために
母の小さな頭の形を忘れないために
誰の〈母〉でも〈大柄なひとだったと思いこんで〉しまうかもしれません。しかし、現実には〈小さな頭〉の人の場合が多いのでしょう。その発見を詩化した佳品だと思います。〈こんなに母の頭は小さかったのか――〉という感慨しか書かれていませんが、このフレーズで〈母〉の人間像が見事に表出したと思います。
○詩誌『部分』42号 |
2010.4 石川県金沢市・三井喬子氏発行 非売品 |
<目次>
寄稿 淡せき草/鈴木東海子 1
阿国/今野和代 5
不条理な布団/三井喬子 9
淡せき草/鈴木東海子
あかい風にまう花びらとみえてふれるとただ
冷たいのであった。とける花びらを手にうけ
とめるとあかくとどまり重なりつづけるので
あるが秋のはじめは冬のように静かに冷えて
いくのである。風のはこんできた淡い薄さは
透きとおって地につき赤くそまっていく。
とけたのは雪のはなびらであったが赤に赤を
重なるはなびらは冷たいをかかえてはいるが。
この薄く白いかたちはどこにあったものだろ
うか。
想いだけが濃くなっていく白いうすいもの。
手のひらに零れたいくつかのこまかい白い。
雪の花びらのようではあったがいつも見てい
たことのあるちいさなやわらかい花びらの爪
さき。のはずね。
うすいちいさなものそれはなにかうすいちい
さなおもいとでも言っていいように心にかか
るのである。小さい手のひらからはなれると
ちいさいかけらであっただろう。大きな手の
ひらからはなれるときでさえもちいさいこま
かい爪であった。とけないで。いて。
ここにいたのであった。
雪の花びらのように白くうすいちいさな爪は
先からはなれてここにあるのだった。それは
見慣れたうすい小さな日々であった。つながっ
ていたのである。
はなれていくということもなく。
のこしていくのはつながっていくはこまかい
うすい白いがそこにあった。
時のように成長していくのを見ていたちいさ
いであった。それは零れるままにこぼしても
よかったのである。が。そこから先に白いが
あって。
つながっていたあたたかいうすいがうえから
流れてきて赤くそまるのだろうか。十一月の
秋のはじまりは赤い花が咲いてはおりてくる。
咲いては感情のようにおりてくる。そのなん
かいもの重なりに。そのかさなりをなんかい
もなんかいもわたしは見ているのだった。
冬かぜをつれてきた赤い花は次の日も次の月
もかぞえるのをやめるまでまいおりてくるの
だろう。
うすいちいさいは傷をかきむしるようにのび
ていたはずでありそののび長さが冬になると
気になるのである。深くなっていく傷をどの
ようになだめよう。夜のあいだも花びらは音
をたてる。冷たい傷をあたためるようにかさ
なりあっているのだろう。夜毎に爪をきると
深爪になっている。長い夜に痛みがのびてい
く。
〈そこから〉どこへ。
〈そこから〉どこへ、と。
せきたてる花びらたちになんかいも会うので
あった。なんかいもがつづいているあいだに
赤の層ができて彩度も沈んでくる。淡い赤か
ら暗い赤になり理知的に移動すれば全体の安
らかな表面を得ることもできるだろう。淡い
ちいさな冷たいに 会いにきたのは わたしで
あった。どのように淡くてもはっきりと知る
ことができるのであるからここで待てばいい
のである。
待つことが淡くある。とけないで。と。
待つことでとけないで。
タイトルの意味が判らないのでネットで検索してみました。が、出てきませんでした。作者の造語と思ってよいでしょう。〈花びらとみえてふれるとただ/冷たい〉だけのもの。〈秋のはじめは冬のように静かに冷えて/いく〉とありますから、雪と考えてもよいかもしれません。ただ、この作品はそういう常識で読むのは間違いではないかと思います。常識を離れて、純粋に言葉の世界を愉しむ。できれば声に出して読んでみてください。鈴木東海子ワールドが浮かび上がってきます。
○詩誌『るなりあ』24号 |
2010.4.15
神奈川県相模原市 荻悦子氏ほか発行 300円 |
<目次>
荻 悦子 ことづて * 春 1
鈴木正枝 さばく * 悠かなものに 5
氏家篤子 道筋T * 道筋U * 道筋V 9
あとがき
ことづて/荻 悦子
よしずの陰に
男の人の声がする
はっきりと聞きとってしまい
そのことがおそろしい
あとから
あとからやってくるのだろうか
珊瑚礁からは
紐のような生きものが上がった
白と黒の横縞
目をあざむくような十メートルが
細い渦を巻いて
浅い容器におさまっている
潮が変わり
海藻が若くなった
待ちのぞんだのは
そんなことではなかった
旅のあと
やってくるのだろうか
稲妻が走り
鶯が鳴き始めた
逝った人からの言づては
やってこない
〈逝った人からの言づて〉は何かを考える手立てが、最終連以外のすべての連にあるように思います。具体的に分る必要はないでしょう。〈男の人の声〉と〈紐のような生きもの〉。それらは〈待ちのぞんだ〉ものではないと謂っています。情景が絵のように浮かんできますので、それを空想して愉しむ作品だと思います。