きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2010.4.9 山梨 中村キース・ヘリング美術館




2010.5.21(金)


 NPO法人日本子守唄協会相模支部の総会が秦野市の「ロイヤル健康会館」で開かれました。構成メンバーが少ないせいもあるのですが、出席54%、委任状提出46%、計100%という前代未聞の数字で総会は成立。型どおりに事業報告、決算報告を承認。続いて本年度の事業計画案、予算案も承認。まあ、構成人数40人ほど、年間予算160万円規模の支部ですから、こんなもんでしょう。

 昨年度は支部設立に始まって、初めてコンサートを厚木文化会館で行いましたけど、今年も10月22日に相模原グリーンホールで開催します。その他、大和市、小田原市、秦野市でミニコンサートも計画されています。詳細はこれから決まるでしょうが、拙HPでも紹介していきたいと思っています。よろしかったらおいでください。




『横浜詩誌交流会会報』60号
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2010.5.10 横浜市金沢区 木村氏方事務局 非売品

<目次>
同人誌は詩人の魂の中心です/新会長・植木肖太郎 1
エッセイ
『京浜詩派』創刊のころ/荒波 剛 2    詩人になろうとした動機/林
(リン)文博(ウェンボー) 3
水道水について/小沢千恵 4        大津事件/坂本くにを 5
一人の横浜の画家/うめだけんさく 6    記憶に残る三編の詩/志崎 純 7
房総へ/進藤いつ子 8           エルンスト列車/木村 和 9
折鶴のお婆さん/加瀬 昭 10        「獣の会」のこと/新井知次 11
創立・創刊「地下水」/最初はガリ版で「瞳」を創刊/保高一夫 12
結社近況 13
受贈誌・御礼 16              あとがき 17
横浜詩誌交流会役員名簿




 
水道水について/小沢千恵

 毎日、当たり前のように使っている水道水。ある日ふとこの横浜の水道水はどこから流れ出て、どのようにして私の元へくるのだろうと疑問に思った。その時から水に興味を持ち私の河の旅が始まった。今まで多摩川源流を訪ねて、現在は相模川に沿って歩いている。
 人間の体の大部分は水分であると昔に聞いたことがある。地球全体の水を一〇〇とすると、海水と淡水の割合は九七%対二・八%。その淡水の中で生活に使える水道水は〇・〇〇九一%なのである。そして人が一日に利用している水は約200〜300Lで、日本での一家庭での使用は風呂水が一番多く32%、次いで台所、洗濯…。
 世界の各国の一日の使用量は約144L(世界の平均)と言われ、日本は約300Lも使っている。河の講座に出て、水の事を知れば知る程驚きの連続だった。

 今、私が使用している水道水は相模川から取水されていることを始めて知り、相模川は母なる河と言われ富士山麓にある山中湖西端から流れ出る一級河川である。主に神奈川県の水資源として水道水、工業、農業、電力用に分かれているが、江戸時代は現在よりも水量が五倍程多く満々と流れていた。また宮ケ瀬ダムは横浜市や川崎市を含む神奈川県下十五市九町に水道水を供給して、県内の九十%の家庭がこの水を毎日暮らしに使っている。山中湖を源流として富士の湧き水と共に桂川へと流れ、相模湖から津久井湖へ、そして相模川へと。その途中に宮ケ瀬ダムや社家(相模大堰)の取水管理事務所で浄化され、川は馬入川となり相模湾へ流れ出る。
 相模大堰は一日最大取水量百三〇万立方メートルの設備であり自然の動植物も豊かに、コアジサシの鳥や鮎の観察等が見られる。

 河の永い歴史の中で、川岸に人が住み始め多くの文明が発達して来た相模川の沿線に何箇所の古墳や、文学者が活躍している。道志川の側には戦後にラジオで有名になった「三太物語」や憲政の神の「尾崎萼堂記念館」、「小栗判官と照手姫」の物語等賑やかである。
 私は水道のコックを回すと、清潔な水の中に芳しい年代の風と様々な歴史の匂いが織り交ざり、水道に携わった人々の情熱を想う。今、地球の各地で砂漠化して水争奪戦の話に、自然に優しいエコの気持ちになって来る。そして私の名前の小さな沢の水は、まだ河に引き付けられて、私という人間がどこに流れ、どこに行こうとしているかを知りたいと思う。(青い階段)

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 横浜市内に発行所を置く詩誌の交流会機関誌です。紹介したエッセイの〈江戸時代は現在よりも水量が五倍程多く満々と流れていた〉という記述には驚かされました。〈相模川〉はクルマや電車で通り過ぎ、支流の道志川ではキャンプも楽しんだ、馴染み深い河です。上流に〈宮ケ瀬ダム〉が出来たから水流が細くなったのかもしれませんが、それだけではないものをこの文章から感じ取れます。

 最後の〈そして私の名前の小さな沢の水は、まだ河に引き付けられて、私という人間がどこに流れ、どこに行こうとしているかを知りたいと思う〉という文章も佳いですね。自然から採った苗字が多い日本人の、ひとつの典型がここにはありますし、それを大事に、誇りに思う作者の気持ちが伝わってきます。
 なお、最後の( )は所属詩誌名です。




詩誌『路』19号
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2010.6.1 東京都小平市
路の会・小林憲子氏発行 500円

<目次>
特別寄稿 深山       伊藤 桂一 2

雨後の桜葉の道を歩くたびに 市川紀久子 4   ことば         ねもとよりこ 8
吉田三市郎氏       ねもとよりこ 10   誰もいない        牧野 淑子 12
手術室           山ア 恵子 14
随想
山へのあこがれ       山ア 恵子 17   風と青年         小林 憲子 18
風の岬           小林 憲子 19   三点リーダー       石渡あおい 20

東十五番街         石渡あおい 22   星くずの空へ       小倉 和代 24
三月に           小倉 和代 26   数霊           本間 雪衣 28
白い勾玉          本間 雪衣 31   祈り           森田 勝世 32
着信メロディ        植木百合子 36   アドナイ館        植木百合子 38
昭和の日          小林 憲子 40
連詩 白く長い尾根道          42
<コラム 街路樹>            45   <編集後記>              46




 
昭和の日/小林憲子

葉桜の並木みち
一か月前は 桜花爛漫
見物の人出で賑わった

今は揺れる 木もれ陽のもと
静謐なときが流れている

銀髪のひとが歩いてくる
つば広の帽子 レースのストール
杖を頼りにして

すれちがう折 かるい会釈
よぎる同年代の
親近感とほほ笑み

 今日は昭和の日――

お河童頭から
三つ編のお下げ髪まで 続いた
長い 長い 戦争

空襲 学徒動員
強制疎開 食糧難
焼け跡整理 そして結婚

昭和は六十数年で去ったが
後方に佇んでいる気配
辛いときは
背中を押してくれるような

ふり返ると
帽子のひとは ゆっくり逍遥している

 4月29日の「昭和の日」は天皇誕生日でしたが、昭和天皇が亡くなって“みどりの日”になり、2007年から現在の呼び名になったのは周知の事実です。名称変更にあたっては様々な政治的問題がありましたけど、ここでは措きます。作品は第7連にあるように戦争の時代だったことを述べ、しかし〈結婚〉があり、〈辛いときは/背中を押してくれるような〉時代だったと回想しています。私も戦争こそ体験していませんが、青春の多くの時間を過ごした時代ですから、それなりの共感があります。〈銀髪のひと〉の扱いが生きている作品だと思いました。




二人詩誌『風』3号
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2010.6.20 埼玉県上尾市
春と風出版社・日高のぼる氏発行 非売品

<目次>
「五体投地」他2編 日高のぼる…2     「チベットの空」 山田典子………28
「風のいたずら」 北村愛子………30     「短歌五首」 田辺好子……………32
「宣誓」 山岡和範…………………34     「退職して」 牧葉りひろ…………38
「風」2号感想紹介…………………42
あとがき………………………………46      表紙イラスト−苦瓜 山田典子




 
チベットの空/山田典子

長衣をはおって
来客に笑顔をつくり
バター茶をふるまう
紅茶を使ったような味
のどの渇きを覚えていて
おいしくいただく

日の光をあつめた
調理器具は
珍しい
インスタント湯わかし器ってとこか

別れのとき 幼い子どもが
手を振ってくれる
タルチョはためく庭を出て

青空に
吸い込まれそうな
チベットの空

 チベット旅行をしたときの作品のようです。〈珍しい/インスタント湯わかし器〉の写真も添えられていて、変形パラボラアンテナのような集光器で集めて熱を利用して沸かしているのでしょう。この写真には説明も付いていて、
〈チベットの民家で使われている太陽光利用の調理器具です。お湯ならヤカンで20分ほどで沸きます。そのお湯でバター茶をみんなでごちそうになりました。〉
 とありました。〈青空に/吸い込まれそうな/チベットの空〉が目の前に広がるような作品だと思いました。






   
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