きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2010.5.23 静岡 中勘助文学記念館 |
2010.6.11(金)
横浜のアウトレットで買い物をした帰りに、三浦半島の劔崎に寄ってみました。同じ神奈川県内とはいえ、行ったのは初めてです。三浦半島は意外と陸の孤島になり勝ちですから、現職時代は敬遠していました。次の日のことを考えると遅く帰れないし、帰宅に余計な時間を使いたくないという気持ちからでした。それが今はいつ帰ってもいいし、何時間かかっても一向に気になりません。無職の強みです(^^;
写真が岬の一部です。灯台は左の崖向こうにありますが、あまり良い写真が撮れなかったので割愛。三浦半島らしく岬の奥深くまで畑が出来ていました。塩害もあるでしょうに、人間の営みは延々と続いているのでした。お天気は曇天。梅雨ですからね、まあ、しかたないでしょう。神奈川の隠れた名所をこれからも訪れたいと思います。
○詩誌『北の詩人』83号 |
2010.6.15
札幌市豊平区 100円 日下新介氏方事務局・北の詩人会議発行 |
<目次>
版画・詩 女神微笑む たかはた しげる 1 父の生きた道 大竹秀子 2
ミミタロウ 大竹秀子 4 針と糸 大竹秀子 4
ぼくらの時代 日下新介 5 ピカソの描く平和の鳩 もりたとしはる 6
怒れこの事実に もりたとしはる 6 機密費のゆくえ もりたとしはる 7
デターレント・抑止力 たかはたしげる 8
エッセイ 『カリガリ博士』から『銀河鉄道の夜』を読み解く 倉臼ヒロ 9
ひとごとでない たかはしちさと 12 不信募るメディアヘ たかはしちさと 12
叙事詩 白石(12)白石村の誕生 阿部星道 14
短歌 春は巡れど 幸坂美代子 16
エッセイ 風力発電計画地の銭函海岸を見て たかはたしげる 17
青春の詩をよもう(日下の詩の紹介) 小森香子 18
黄金色の時に 内山秋香 19 深山二八七mにて 根津光代 20
フレッシュスーツ 根津光代 21 プールで出会う女性 根津光代 21
恩徳讃の世界−信光寺の法暦は− 仲筋義晃 23 通院 佐藤 武 26
短詩 政戦前後 佐藤 武 26
天皇陛下万歳とはいわなかった・沖縄戦・シベリア・暁に祈る・ろうそく・溺死・毒ガス・夕焼け
ごまめのはぎしりから ひな祭り(佐藤 武) 28
エッセイ やっぱり! さすが! 鉄幹殿 「人を恋うる歌」小考 日沖 晃 29
北の詩人・82号作品感想 大竹秀子 31
受贈詩話寸感 日下新介 33 もくじ・例会予告・あとがき 36
やっぱり!
さすが! 鉄幹殿 「人を恋うる歌」小考/日沖
晃
明後日、病院で検診を受けるというのに、深夜、なんたることか、糖尿であることを忘れて、ハイボール一杯を飲み干し、ジンフイズのタンブラーを傾けながらまなこを閉じていると、突如、戦前中学生だった頃の愛唱歌が口をついて出てきた。与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」である。この歌を歌っていると、何となく壮志気分に心躍り、若さにむち打たれる思いになったものである。
歌詞は十六連まであり、人口に膾炙しているのは、一、二、四連で、私は「人やわらはん 業平が……」の五連の歌詞も好きだったが、よく口にしたのが、「妻をめとらば 才たけて……」の一連と「恋の命をたずぬれば……」の二連、そして次の四連である。
ああ われコレッジの奇才なく
バイロン ハイネの熱なきも
石を抱きて野にうたう
芭蕉のさびをよろこばず
この歌詞を口にしながらも、わたしは疑問を抱いていた。中学生の私は四連の意味を
「私にはコレッジのような才能もなく、バイロンやハイネのような情熱もないが、だからといって、巷の人間関係を避け、自然と一体化して寂寥感を句の心とする芭蕉の境地も私には喜ばしいものではない」
と、当時の頭の中のことばとは違うが、先達の立ち向かい方に、自らの非力を認め、しかも、日本古来の伝統的な自然回帰の詩精碑に否定的な認識を示していると解釈していた。
中央公論社刊の「日本の詩歌」4「与謝野鉄幹与謝野晶子若山牧水吉井勇」の中の解説でも、
「自分はコールリッジ(コレッジのこと)のような才能やバイロン、ハイネのような熱情には欠けているが、さりとて曠野に閑寂を求めた芭蕉の境地にはくみしない。」
と、私同様の見解を示している。
だが、それにしても納得できない表現がある。
まず二行目「熱なきも」の「も」である。この「も」は逆接の接続助詞、「けれども」の意である。「も」の前段で、自らの不足部分を認めたのであれば、逆説的に、当然後段には、自らのなし得る意志的な部分がクローズアップされなければならない。だが、前述の解釈の通りだとすると、一連から三連の高揚してきた精神は萎縮に向かっているとしか言いようがない。
その上、さらなる疑問がある。一、二行目で、具体的なイメージ抜きに「コレッジの才能」「バイロン、ハイネの情熱」をわが身と引き比べているのに対し、芭蕉だけは特にその創作姿勢を取り上げ、「石を抱きて野にうたう」と、象徴的なイメージで描いていることである。このことは芭蕉が日本人であるというだけでなく、私には、その孤高の詩精神に対する作者の崇敬や憧憬の念が込められてげるように思えてならない。だから、私は作者鉄幹が芭蕉の精神活動を内向きで非社会的だから好ましくないなどと思うはずがないと思ってきた。それが何故芭蕉の境地にNOの見解を示しているのか、私には理解できなかった。
優に半世紀を超えて持ち続けてきた疑問である。口ずさみながら、私はこの釈然としない思いを、アルコールの勢いも借りてなんとしても晴らしたくなって、二点に注目して調べることにした。二行目末尾の「も」と四行目末尾の「ず」である。多少の酔いに、午前二時という深夜でもあり、調べは翌日回しにした。
翌当日、私が選んだ辞書は次の三冊である。二冊はいつも身近な書斎において、しょっちゅうお世話になっている。「広辞苑」(新村出編 岩波書店)、次に地下の書庫から、鉄幹が師と仰ぐ落合直文著の「ことばの泉」(大正六年刊 大倉書店)と、鉄幹の詩が文語で書かれていることから「古語大辞典」(中田祝夫ほか編 岩波書店)、この三冊である。
まずは「も」。これは三冊とも前述の私の解釈と同じ逆接の接続助詞としており、それ以外には考えられない。ちなみに「古語大辞典」には、
「も」[接助](連体形に付く。中古末ごろから用いられる)逆接の意を表す。…ても。…けれども。
と、なっている。
次に「ず」。ここには、思いもかけず、歓声を上げたくなるような発見が待っていた。「ず」は打ち消しの助動詞ではなかったのである。ならばいったい何者?……。ではまず「広辞苑」を開こう。あった。見つけた。宝物に突き当たった。
「ず」[助動](「むとす」の転「むず」「うず」がさらに転じたもの)意志または推量を表す。
と、あった。そして、「古語大辞典」には、
「ず」[助動特殊型〕(〇・〇・ず・ずる・ずれ・〇)推量の助動詞「うず」の約。広く行われなかったようである。
とある。「ことばの泉」では、意志や推量としては取り上げていない。
これで読めた。「芭蕉のさびをよろこばず」の「ず」は、打ち消しの助動詞ではなく、もとは「むず」だったものが、「うず」に変化し、さらに「う」がとれて「ず」だけになった。その結果、打ち消しの「ず」と同形になったということになる。意志・推量の助動詞だったのである。従ってここでは、「芭蕉のさびの詩境を喜ばしく思っているぞ。」という意味になり、
「西欧の詩人コレッジらの才能や情熱といった表面的なものは自分になくとも、芭蕉の『さび』という奥深い孤高の詩精神を高く評価して、自分もそれを継承していく。」
と、その意志を示しているのである。それには私も全く共感する。
とうとう長年の疑問が氷解し、鉄幹の気概がストレートに私の胸に落ちてくる。出口のなかったながいながーいトンネルの厚い壁が一挙に崩れて、どっとなだれ込んでくる光がまぶしい。今私は幸せいっぱい。今宵は缶ビールを傾けながら、心からの大声で、「妻をめとらば…」と歌おう。鉄幹の詩が「糖尿などぶっ飛ばせ」と言っている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今号は詩ではなくエッセイを紹介してみました。〈与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」〉は、いまを去ること40数年前に私もよく唄っていた歌です。高校生のころ、腰に手拭をぶら下げた時代錯誤のバンカラグループと一緒でした。放課後の屋上で唄うのが三高寮歌を始め、この「人を恋うる歌」。懐かしいですね。
しかし、そのころは〈納得できない表現〉とまでは思い至りませんでした。このエッセイに接して、なるほどと納得しています。〈中央公論社刊の「日本の詩歌」4「与謝野鉄幹与謝野晶子若山牧水吉井勇」の中の解説〉でさえ及ばないことに論考は言及していて、敬服しました。エッセイとしてもお酒で始まりお酒で締める、見事な文章だと思いました。
今号も拙HPを採り上げていただきました。御礼申し上げます。
○個人詩誌『魚信旗』72号 |
2010.6.15 埼玉県入間市 平野敏氏発行 非売品 |
<目次>
王国 埼玉県立こども動物自然公園にて 1 哀悼 4
島の叫び 5 留守電 6
見えない韻律 8 後書きエッセー 10
島の叫び
島はもともと静かだった
取り付く島もないほど静かだった
長寿も世界一
子宝も日本一
そんな島に
金(かね)が入るぞ 仕事も増えるぞ
進む過疎化も 消える街影も
いっぺんに取り返せるぞと 煽るやからが出た
アメリカの軍事基地はどうかと
打診を超えてお願いする総理大臣も出てきた
島は沸騰
眠気(ねむけ)も微睡(まどろみ)も吹っ飛ぶどころか
発作も起きそうな罪な騒動が起こっている
基地を減らすどころか
盥回しの話が日本の政治とは情けがない
ここ鹿児島県の徳之島だけの話ではない
日本という島全体の問題であるのだ
県外だ国外だと盥回しを超えて
「基地は減らそう」という政治の叫びが
なぜ起こらないのだ
日本に金(かね)が入ってくるからか 仕事も増えるからか
基地があれば平和は護れるという妄想か
すべてはわかっているのに警戒心が都廃している人類
この島の叫びが
人類の警戒心をやわらかにほどいていく声にならないものか
だみ声が天使のやわらかな声に変わらないものか
〈鹿児島県の徳之島だけ〉ではなく、〈日本という島全体〉で〈「基地は減らそう」という政治の叫びが/なぜ起こらないの〉かと私も思います。きちんと計算したわけではありませんが、〈日本に金が入ってくる〉というのは、おもいやり予算と相殺するとそう多くはないのではないでしょうか。なにより外国の基地と、その治外法権を受け入れるというのが独立国家としてどうなのか、そんなことを考えさせられました。
○詩誌『どぅるかまら』8号 |
2010.6.10 岡山県倉敷市 瀬崎祐氏発行 500円 |
<目次>
蒼わたる…消えていく水 2 田中澄子…ヒロ子さんを 4
沖長ルミ子…晴れのち雨 6 川井豊子…旅する男の物語 8
小山淳志…地球をひとつ 10 岡 隆夫…亀島山 12
水口京子…眼鏡 14 北岡武司…明るみ 16
北岡武司…ドリームズ噛むトゥルー 17 瀬崎 祐…祝祭 18
田中澄子…(書評)紙一重の非日常 20 坂本法子…(書評)詩作する場 21
境 節…急に 22 境 節…日々をかかえて 23
秋山基夫…覚醒 24 河邉由紀恵…うさぎ 26
斎藤恵子…水 28 斎藤恵子…影の犬 29
坂本法子…ネズミの宿 30 タケイリエ…ゆれる 32
山田輝久子…夜はスクリーン 34
編集後記 36
晴れのち雨/沖長ルミ子
「今日は昼から雨になるで 傘もっておいき」
用ありげに門口で待っていたおばあさんが
蝙蝠傘をさしだす
いつものことでありがたいけど
すこしうるさい
風の向きや湿りぐあい
雲のうごき
おばあさんの朝の天気予報は
不思議に雨をいいあてるので
だまって傘をうけとり友達のあとを追っかけた
学校の置傘はだれも使わない重い番傘
服がぬれると明日が困る
○
「お出掛けのかたは 折りたたみ傘のご用意を」
テレビのお天気おねえさんが笑いかけてくれる
今朝は
どこへ 何を持って出かけようとしているのか
手帳の自分を確かめていると
「傘もって おいき」テレビにおばあさんの声が
折りたたまれて追っかけてくる
傘は忘れたふりをして
雨に降られたら
番傘の置傘をさがして帰ろう
○の前後でおそらく半世紀ほどの時間が経っているのでしょう。その時間の処理を〈番傘〉が担っています。散文では描けず、詩の独断場だと思います。〈おばあさん〉と〈テレビのお天気おねえさん〉のダブらせ方も詩でしかできない、見事な作品だと思いました。