きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2006.5.29 さいたま・見沼たんぼ「見沼自然公園」にて |
○石田天祐氏著『イザナミの言語学』 |
2003.1.10
京都府相楽郡木津町 ギルガメシュ出版局刊 5000円+税 |
<目次>
一 出雲の神々 10. 二 いま現在 18.
三 怪鳥ぬえ 22. 四 古代の実体「マ」 26.
五 そらみつ 32. 六 高木の神 36.
七 「合ふ」と「生ふ」 40. 八 村屋坐弥富都比売神社 47.
九 大宜都比売 53. 十 野見宿禰 58.
十一 相撲の節会 63. 十二 土方歳三 67.
十三 春日のカスガ 70. 十四 父と乳 75.
十五 まさか 79. 十六 綿津見 84.
十七 往馬神社 87. 十八 志那津比古 90.
十九 真清田神社 94. 二十 天宇受売命 103
二十一 カラ・クム 107 二十二 率川神社の百合祭り 111
二十三 春は萌りつつ 115 二十四 さなぎ 119
二十五 御阿礼 123 二十六 大山咋神 126
二十七 河豚 129 二十八 尸解仙ヤマトタケル 134
二十九 叩けば埃が出る 138 三十 祖聖神の父 141
三十一 イナンナとイザナミ 144 三十二 オカミの神 147
三十三 基本語彙について 152 三十四 道教と日本神話 156
三十五 天下り(神々の世界への旅)161 三十六 津島の神さま 165
三十七 桃太郎の鬼退治 170 三十八 ある 174
三十九 甘しと美し 177 四十 尻と陶 181
四十一 河内の古社巡り 184 四十二 値 191
四十三 四手 194 四十四 月読神社 198
四十五 田辺廃寺 202 四十六 野見宿禰神社 205
四十七 佐牙神社の京都相撲 209 四十八 いく 212
四十九 イナンナのように 216 五十 近江紀行 220
五十一 三島溝咋 =225 五十二 川と隠り世 229
五十三 忘る 234 五十四 願はくば 239
五十五 みをつくし 244 五十六 朱智神社 247
五十七 信貴山と龍田大社 250 五十八 三上山の火男 256
五十九 鮮卑族の皇統 259 六十 推柴の 264
六十一 朝 269 六十二 けなるい 273
六十三 丹 276 六十四 ハギ 282
六十五 きたなし 285 六十六 八母音説を駁す 288
六十七 ハジカミ伝説 293 六十八 栲 296
六十九 イザナミ語幻想 300 七十 原日本語への旅路 307
七十一 経津主神 315 七十二 不届き 318
七十三 三重紀行 322 七十四 たしなみ 326
七十五 神の形 330 七十六 山東半島印象記 332
七十七 酒のことはじめ 335 七十八 至極 337
七十九 数を読む 340 八十 道と手 343
八十一 古代人の「空白」概念 347 八十二 存在の自己表明 351
八十三 ホケノ山古墳にて 355 八十四 火の山「アソ」 359
八十五 貸し借り 364 八十六 縄文時代の金 369
八十七 勝つ 373 八十八 安定と支配 377
八十九 枚方の古社巡り 383 九十 同音同源異議語 388
九十一 幻の八母音 396 九十二 草木のイメージ
九十三 水平、並列による一体化.408 九十四 牛と羊 414
九十五 同音異義同源語 418 九十六 三韓紀行 423
九十七 「カ」音の動詞 427 九十八 口のかずかず 432
九十九 初詣紀行 437 百 あしひきの 440
七十七 酒のことはじめ
西洋の酒の神様といえば、ギリシャ、ローマ神話のディオニソス、バッカスが余りにも有名だが、日本神話ではこれに匹敵する神格の持ち主は見当たらない。京都市嵐山にある松尾大社は川向こうの梅宮大社とともに酒造りの神として知られ、社前には全国の酒造家から奉納された酒樽が並んでいるが、主祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)は名の示すように本来は山の神で、酒とは関係ない。この神を氏神とした朝鮮渡来氏族の秦(はた)氏が酒造りの技術を持ち合わせていたために、中世以降、酒造神と見なされるようになった次第である。
スサノヲノミコトは八岐大蛇(やまたのおろち)に酒を呑ませ、酔った隙をついて退治したが、これは六、七世紀ごろに創作された神話で、縄文時代から人や大蛇を酔わすなどの上質な酒が造られていたとは考えがたい。古代には乙女たちが米を噛んで、唾液とまぜて発酵させ、酒を造ったが、米を素材とするならば、稲作文化の定着した弥生時代以降となる。
「酒」を朝鮮語では、「スル」と言い、日本語の「汁」を意味する「シル」と同源と考えられるが、醸造は高度な技術を要したようで、その技術が朝鮮半島から渡来したことを特異な事件として古事記は伝えている。
応神天皇の時代に、秦(はた)の造(みやつこ)の祖、須須許理(すすこり)が渡来したが彼は「酒(みき)を醸(か)むことを知れる人」で「大御酒(みき)を醸(か)みて」、天皇に献上した。応神天皇は酔に浮かれて、宴歌を歌った。
須須許理(すすこり)が 醸(か)みし御酒(みき)に われ酔ひにけり
事無酒咲酒(ことなぐしえぐし)に われ酔ひにけり
この須須許理(すすこり)を祭る古社が京田辺市の郊外の森にひっそりと建っている。佐牙(さが)神社である。「佐牙(さが)神社」は「佐牙(さが)」という漢字表記が少し異様な印象を与えるが、これは「酒(さか)」の訛音(かおん)に宛字(あてじ)したものにすぎない。縁起書によれば、創建は敏達天皇二年(五七三)で、これよりのち「造酒司(さけつくりのつかさ)」の奉幣(ほうへい)があったと記されている。佐牙神社の北方には酒屋(さかや)神社がある。酒屋とは酒殿のことで古代、この周辺が醸造の中心地であったことが判る。酒屋神社の祭神は応神天皇で、醸造業の祖、須須許理(すすこり)が彼に招かれて朝鮮より渡来した縁が偲ばれる。社会では、応神天皇の母親の神功(じんぐう)皇后が朝鮮出兵のとき三個の酒壺を神社の裏山に供えて諸神を祀り、三韓(さんかん)征伐のあと、その霊験を喜んで、社殿を創建し、酒屋神社と名付けたという。三韓を征伐できたのは、酒の霊力のお陰だといわんばかりの伝承である。
酒屋神社のある興戸(こうど)は近年同志社大学のキャンパスが広がり、少し賑々(にぎにぎ)しくなってきたが、興戸(こうど)という地名も「酒人(さこうど)」の「さ」が脱落したもので、古くは酒屋(さかや)村と呼ばれていた。
現地に足を運ばれた方は、こんな辺鄙なところに、醸造所が創業されたとは信じ難いだろうが、ここは新王朝の創始者ともいわれる継体(けいたい)天皇が「筒城(つつき)の宮」を置いたところで、六世紀初頭のキャピタル・シティの所在地だ。応神天皇の息子の仁徳(にんとく)天皇の浮気に頭に来た皇后の磐之媛(いわのひめ)が宮中を飛び出し、山城河(やましろがわ)(木津川)をのぼって、逃げ込んだ朝鮮人の奴理能美(ぬりのみ)の家も京都府の綴喜(つづき)郡にあった。
川向こうの大山崎には酒解(さかとけ)神社がある。酒解(さかとけ)も醸造を意味する古語で、サントリーがこの地に工場を設けたのも、古代の酒神の求心力によるものかもしれない。
朝鮮語で「発酵」を表す動詞の語根はSAKで、後続する助詞によりSAKA、SAKEとも変化する。朝鮮語の「酒」を表すSULが大和(やまとことば)言葉ではシルと転訛(てんか)し、「汁」に転義したため、「発酵」物のSAKA、SAKEを「酒」として借用したわけだ。 (平成十一年七月三日)
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京大大学院言語学科修だけあって、「百」に及ぶ『イザナミの言語学』には瞠目させられました。比較的長い論文が多いなかで、紹介したのは短い部類、しかも私の大好きな「酒」の「ことはじめ」ですから全文を転載させてもらいました。正月や地鎮祭で使われる御神酒≠ヘなぜおみき≠ニ呼ぶのか判りませんでしたが、「応神天皇の時代」からのことだったのですね。お酒もむやみに鯨飲するだけでなく、語源を考えながら呑むのも一興かもしれません。
○石田天祐氏著『妣の国 父の蒼天』 |
2004.1.15
京都府相楽郡木津町 ギルガメシュ出版局刊 3000円+税 |
ブナ林の幻影
お父さん
お父さんの気に入ってくれた嫁を連れて
また帰って着ました
冬枯れの古里を久しぶりに
妻と一緒に歩きました
若い日の母が裏畑で
麦踏みをしています
「ただいま、お母さん」
「おや、お客さんと一緒だね
どちらさんかね」
私の呼びかけに母は振り向きました
「京都から連れてきたんだ」
「そうかね、いつまでも仲良くするんだよ」
何ごともなかったように
母は再び麦踏みを始めます
鎮守の森の空地では
幼なじみの小学生が
隠れん坊をしていました
「やあ、みんな、昔のままだね
誰も年を取らないね」
私が大声を上げると
子供たちはおびえた様に
木陰に隠れました
村外れの共同墓地は
薄暗いブナ林に囲まれています
朽ち果てた小さな墓標の前に
妻はうずくまりました
「こんな淋しいところに
三十年もひとりで眠っていたのね
ご免なさい、本当にご免なさい」
生まれて二日で旅立った息子に
妻は涙で話かけます
小高い丘の頂きにひとりで登ると
初恋の少女が待っていました
松の根株に並んで腰を掛け
二人は彼方の湖を眺めます
「嫁に行く前の日にこの山の上で待っているわ」
十三歳の少女は恥ずかしげに囁きます
私が手を差し伸べると
少女の姿は掻き消えてしまいました
山裾の寺道を行くと祖母に会いました
少年に戻った私は懐かしげに呼びかけます
しかし 祖母は怪訝な顔で黙って通り過ぎました
お父さん!
お父さんが寝起きしていた部屋に
兄弟四人が集まって母の想い出を語り合いました
声を荒げるものはひとりもいません
あっ、和尚さんが来たようです
お父さん、ちょっと待って下さい
みんなで部屋をすぐ移りますから
タイトルの「妣の国 父の蒼天」には「ははのくに ちちのそら」とルビが振られています。その名の通り93歳、96歳で亡くなった母上と父上への鎮魂を主題とした自伝です。両親から聞かされた著者2歳頃のエピソードから始まって2004年現在までの半生を綴った一大自叙伝という趣で、300頁を越える長編を何度も感動しながら一気に読み通しました。
紹介した作品は本著の最後に出てくる10篇ほどの挿入詩のうちの1篇です。少年期から青年、そして壮年の現在までの重要な出来事を昇華させた佳品だと思います。故郷・湖西市の「ブナ林の幻影」は、また私たちの「幻影」と共通です。著者は私より6歳ほど先輩になりますが、同時代を生きた息吹が伝わる詩であり自伝です。感動の1冊をお薦めします。
○月刊大和路『ならら』67号 |
2004.4.1
奈良県奈良市 地域情報ネットワーク発行 400円 |
連載らしい「なら異色人物インタビュー」というコーナーで「『ブランドビジネス』における文学と人生、総合文芸誌『まほろば』編集長・石田天祐さんに聞く」という4頁に渡るインタビュー記事がありました。副題は「奈良は『混沌』と『深遠な秩序』を持っている!」。気になった箇所を紹介してみます。
文学、研究、ビジネス そして生活には垣根がない
−お話を聞いていますと、文学の本道というものは、石田さんのような生き方なのかなあという思いがします。ところで生き方の中でのビジネスですが、石田さんが育てたブランドを、インターニネットで検索しますと、アリス・アリサ、ニーナ・ニーロ、ヴァァレンチーノ・ヴァザーリ、ルチアーノ・フォルネリスなどが多数ヒットしますね。近年では絵本作家、ねねこすず子さんの描くチャッティ・キャッツなどのキャラクターも展開しているということですが。育てるということは具体的にどのような作業なのでしょうか?
石田 そうですね。これは文学とは何か?という問いに答えるより困難です。子どもを育てることに近いですね。一番重要なことはいかに愛情を持って接するか、どれだけ向き合うか、ということなんですが、具体的な話には、なかなかなりませんね。子育ても具体的にはならない部分が大きいでしょう。広告をどのようにするか、などある程度決まっている方法もありますが、その奥になりますと、言葉にはしにくいですね。
おしゃべり猫をキャラクターにした、チャッティ・キャッツは、私自身、ネコが好きということで、ねこ好きの人たちの感性がよく分かりますので、これまでのブランドを育てるということと違った楽しさがありますね。
私にとっては、ビジネスと文学、研究、生活など明確な線引きがありません。日常生活の細かなことまで、何が詩の題材になり、小説の題材になるのか予測がつきません。この予測がつかないということも、ブランドを育てるということと同じなんですね。
ブランドを育てるためには、実にさまぎまなことをしています。多くの人と知り合うということもその一つなんですが、うまく育った場合でも、何が育った要因かははっきりしないんです。さまぎまに行ったことすべてと言えば、そうなんですが、原因と結果がはっきりしないビジネスですね。ある日、気が付いてみると子どもが立派に成長して、「大人になったなあ」と思うことがありますね。そのような感じですので、私の文学活動とマッチしたんだと思います。
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この3日ほど石田天祐さん関係の本のみを10冊以上読んでようやく判りかけてきたところですが、根っ子には「子育ても具体的にはならない部分が大きい」、「ある日、気が付いてみると子どもが立派に成長して、『大人になったなあ』と思うことがあ」る、が挙げられると思います。それは自分が親であるばかりでなく、子であることも含めての「言葉にはしにくい」部分を謂っていると捉えました。ここにこの人の詩を書く理由、文学をやっている理由があるのではないかと思った次第です。
「私にとっては、ビジネスと文学、研究、生活など明確な線引きがありません。日常生活の細かなことまで、何が詩の題材になり、小説の題材になるのか予測がつきません」という言葉も共感しています。実生活の中では「明確な線引き」など無く、何が生まれてくるのか「予測」もつかないのが本当の文学や芸術だろうと私も思っています。だから面白くてやめられない、そんなことを教えてくれたインタビュー記事でした。
○文と絵・ねねこ
すずこ氏 『チャッティ・キャッツとふしぎなたまご』 |
2006.4.12
京都府相楽郡木津町 ギルガメシュ刊 1800円+税 |
おしゃべり猫の一家が町外れの丘にピクニックに行って拾った小さな卵は、毎日毎日大きくなっていく「ふしぎなたまご」。そこから生まれた昆虫は、罰を受けてなんと500年も眠っていた、この地方の自然をまかされた小さな神でした。その罰とは? 猫の子供たちに襲い掛かる自然の猛威…。これから先はやめておきます。手にとって読んでみてください。
絵本ですから子供に親しまれるのは当然としても、実は大人向けでもあるように思います。「まかされた小さな」権力。その中で汲々としているのが大人である、そんな読み方もしてみました。
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