きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.1.22 爪木崎・水仙群生




2008.2.1(金)


 第12回西さがみ文芸展覧会の2日目。今日は午前10時から午後1時半まで当番でした。案内状を出した人のうち、私がいる間にお一人が見え、いなくなってからも3人来てくれたそうです。ありがとうございました。夕方から日本詩人クラブの理事会がありましたから、3時頃には会場を出ましたので、お会いできなかったお3人にはお詫びいたします。

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 写真は会場風景。今日は50人もの方が見えてくれたそうです。

 夕方6時からは新宿・天神町の事務所で、日本詩人クラブ理事会が開かれました。今回の主議題は、来週9日に開催される「詩と平和の集い」広島会場の準備状況の報告でした。2月例会を広島で行うという位置付けで、理事の出席も義務付けられました。もちろん私も参加します。130名ぐらいの集会になるようです。
 他に3賞の候補詩書も報告されました。いずれも日本詩人クラブHPに記載しておきましたので、詳細はそちらをご覧になってください。



個人詩誌Quake29号
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2008.1.25 川崎市麻生区 奥野祐子氏発行
非売品

<目次>
孤島 一       水への回帰 五    数える 九
雪とポストと私



 水への回帰

雲は 重く
天から垂れ下がり
すべての生き物を 押しつぶしにかかる
ふっと
灰色の空から
一粒 また一粒
せきを切ったように落ち始める
雨は慈悲
からからに干からびたアスファルトも
いまや
黒く 潤い
横たわる大魚の腹のように
街灯の光に鈍く ぬめっている
ああ 待っていたんだよ
水よ
善きものも 悪きものも
何もかもを 分けへだてなく
流しておくれ
時のかなたへ
世界の果てへ
記憶の切り立った断崖から
たくさんの面影が身を投げる
ためらいもなく。
水の面に落ちてゆく
粉々に手足砕けながら
こわれてゆく人形のように
波に飲まれて 消えてゆく
ああ 雨は
雨こそは恵み
世界を巡りゆくための知恵
ああ 水よ
わたしは いったい
どこからやって来たのだろう
そして いったい
これから どこへ行くのだろう
鋭利なハサミで ばっさりと断たれた記憶
始まりと 終わりとの
自らの尻尾をくわえて丸くなる
銀色の蛇のように
わたしも小さな輪だったのか
水は
思い出すことを許さない
いのちの 始まりと終わりとを
かいま見ることを 拒絶する
流れろ 流れるがいい
ただ 下へ下へと
流れて 落ちてゆくがいい
雨は慈悲
血まみれの身体も洗い清めて
そっと流れに乗せながら 運んでゆく
また ふりだしに戻る
大きな深い海原まで
ニンゲンであった記憶すら
今は 無く
流木のように 波にたゆたい
帰ってゆく
母なる腕の中に
もはや 名前も コトバも失くして

 文字通り「水への回帰」をうたった作品ですが、「善きものも 悪きものも/何もかもを 分けへだてなく/流して」しまう水の不思議を改めて考えてしまいます。化学的にも水は特殊な物質で、水の性質だけで1冊の本になります。簡単に液化・気化・固化する物質は他にはありません。生命の母でもある水は、今のところ私たちの「どこからやって来たのだろう」「これから どこへ行くのだろう」という疑問に何も応えてくれませんが、いずれもっと科学が進歩すればその答も出してくれるのかもしれませんね。そういう面でも問題を投げかけた作品だと思いました。



個人誌『知井』6号
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2008.1.20 京都市北区
名古きよえ氏発行  非売品

<目次>
姑と嫁/名古きよえ 2           メダカの学校/名古きよえ 4
仰山出来りゃぁ/岡 隆夫 6
詩集『二億年のイネ』岡隆夫著紹介/名古きよえ 12
「知井」の歴史(四)伝承 木梨軽皇子の御所ヶ谷 14

本と出合う/名古きよえ 16         砂漠の葡萄農家−トルファンにて/名古きよえ 19
深尾須磨子の故郷を訪ねて/名古きよえ 22  寄贈詩集・詩誌 28
あとがき



 姑と嫁/名古きよえ

田舎の母は七十歳を過ぎたころ
電話の向うで
こらえきれずに すすり泣いた
そのわけは複雑だったが

八十を過ぎると
もう泣かなくなり
庭の花や 山菜の話をして
些細なことをたのしんでいた

嫁になった人は
よくよく働く人で
母が亡くなってから作る
家庭料理や御餅は 母の味になっていた

特に栃の餅は
灰で苦味を取る技術がいる
義姉の作る栃餅は
母の味そっくりに美味しい

一つ屋根の下で
世代の交代が行われ
死が生を前へおしやる
母の涙も 昔から続いている姑の道であっても
初めての道であった

 昔から何かと問題のある「姑と嫁」を扱った作品ですが、「七十歳を過ぎたころ」は「電話の向うで/こらえきれずに すすり泣い」ていたものが「八十を過ぎると/もう泣かなくな」ったと観察している点が新鮮です。それにはおそらく「義姉」の努力もあったのでしょうが、老いによって「些細なことをたのしんでいた」ことも奏功しているのでしょう。そして「昔から続いている姑の道であっても」、母上にとっては「初めての道であった」ことに改めて思い至ります。たしかに世間では一般的なことでも、当人にとっては初めてということが多くありますね。それを教えてくれた作品でした。



   
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