きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.1.22 爪木崎・水仙群生 |
2008.2.9(土)
日本詩人クラブと広島県詩人協会の共催で「詩と平和」の集いが開かれました。午後1時半から5時まで、広島平和記念資料館のメモリアルホールで行われましたが、詩の朗読やシンポジウム、シャンソンのミニコンサートなどがあって充実していました。来場者も130名ほどと盛会でした。
このイベントは日本詩人クラブの2月例会という位置づけでしたから、理事のほとんどが参加し、関東からも30人ほど、京都・大阪はもちろん盛岡、宮崎からの参加もあって賑わいました。
写真はシンポジウム「詩と平和」のパネリストの皆さんです。コーディネーターは中村不二夫さん。広島花幻忌の会代表・安藤欣賢さん、詩誌『谷蟆(たにぐく)』発行人の小野恵美子さん、元日本詩人クラブ会長の西岡光秋さん、広島原爆病院の医師・御庄博実さんが詩を通して平和にどう関わっていけるかを討論し合いましたが、皆さまの真摯な姿勢に好感を持ちました。
こちらは会場を広島国際ホテルに移しての懇親会スナップです。私個人としては広島県詩人協会の皆さんから詩誌・詩集をいただくことが多くて、お名前を存じ上げている方が大勢いらっしゃいます。しかし、実際にお会いするのは初めての方ばかりでしたから、収穫は大きかったです。作品や日頃のご活躍からは、怖いほどの偉丈夫を想像していたのですが、皆さん温和な方ばかりで驚きました。内に秘めたものが固く大きくても、それをひけらかすことはないということでしょうか、人間性の深さに接して、お酒も美味しくいただきました。
懇親会のあとはスナックでのカラオケ。私は遠慮してリクエストされた1曲だけにとどめましたけど、マイクを握ったら離さないという人もいなくて、ここでも広島の詩人たちの奥ゆかしさを感じてしまいました。
ホテルに帰ったのは0時近かったと思います。いい酔いに身を任せた夜でした。お付き合いくださった皆さん、ありがとうございました!
○詩誌『Griffon』21号 |
2007.12.25 広島県呉市 川野圭子氏ほか発行 300円 |
<目次>
イタリア便り/横山 昭 1
詩二篇(百日紅・いない)/吉田隶平 3
いか脚の犬/川野圭子 4
エッセイ 吉田・川野・横山 6
いか脚の犬/川野圭子
まぶしい夏の陽の下に 今やって来たばかりという
ようないきものが転がっている。頭と前脚と背中は
犬のかたちをしているのだが 腹の下に 細かい触
覚のような いかの脚のような 多数の長いひもが
ついている。そのひも脚がいそぎんちゃくの触手の
ように蠢いているのだ。
見たくもないので畑の隅に埋めた。犬の顔だけ出し
ておいた。「かわいそうじゃないか」と男がやって来
て 掘り出した。
「ホイ」と手渡されてよく見ると まるで たった
今 引き上げたばかりの深海魚だ。
体全体が濡れていて ぬめぬめしたいか脚が宙を探
るように てんでに上がったり下がったりしている。
そのいか脚がわたしの顔や手を確かめるように探っ
ては撫でるのだ。まるで傷口を探して舐めるように。
夏草ばかり生い茂る廃園には 枯れ残った防風林の
杉や槇が歯が抜けたように立っている。丘に鎮座す
る三島様のもみじは 幾代を経ただろうか。そのい
ずれかの古木のうろにでも 潜んでいたのだろうか。
不定のいきものが 他人ごとではなく 身内のもの
に思えてきた。
ここ幾晩か 夜ごと あふれ出ては わたしを溺れ
させる わたしの中の暗い水。その深い水底から這
い上がってきたものに違いない。
せっかく来たのだから ねんごろに世話しなくては。
体を洗って 毛も梳かして 耳掃除もして。しかし
この触覚のような細く柔らかい裸の脚で どうやっ
て歩くのだろう。傷ついて血だらけになるだろうし。
生きていけるだろうか とその様を思って
「埋め戻した方が」と再び迷い始めていた。
「頭と前脚と背中は/犬のかたちをしているのだが 腹の下に 細かい触/覚のような いかの脚のような 多数の長いひもが/ついている」「不定のいきもの」は、「ここ幾晩か 夜ごと あふれ出ては わたしを溺れ/させる わたしの中の暗い水。その深い水底から這/い上がってきたものに違いない」と書かれていますから、「わたし」の内部世界の具象化と採ってよいでしょう。本当は「見たくもない」ものですが、「男がやって来/て 掘り出し」てしまいます。それならと「ねんごろに世話し」てみるものの、「生きていけるだろうか と」心配になって「『埋め戻した方が』と再び迷い始めて」しまいます。
表面的に解釈すればそういう詩でしょう。しかし、ここにはもっと深いものが感じられます。「いか脚の犬」は個人の「深い水底から這/い上がってきたもの」だけではないように思うのです。国家であり民族であり、強いては人間そのももであるような、そこまで読み取らせる力がこの詩にはあります。芸術の根源という言い方も許されるかもしれません。幅の広い作品だと思いました。
○詩誌『環』127号 |
2008.1.30 名古屋市守山区 若山紀子氏方・「環」の会発行 500円 |
<目次>
加藤栄子/空腹 2 さとうますみ/遠いピアノ 4
菱田ゑつ子/いちまいの手紙 6 安井さとし/河の断面 8
神谷鮎美/ポストボーイ 11 若山紀子/沈む −地球はいま− 14
伊藤益臣/未来を拓く生命の鍵 鈴木哲雄の詩集『神様だって』によせて 16
<かふぇてらす> 19
さとうますみ 加藤栄子 神谷鮎美 安井さとし 菱田ゑつ子 若山紀子
表紙絵 上杉孝行
空腹/加藤栄子
ふるえるほど
おなかが空っぽになって
力が抜けてしまったら
そらがおなかに降りてきた
無限なものでいっぱいのおなか
そらはおなかの中で
どこまでも青く
どこまでも高く
どこまでも広い
ちぎれた白い雲が浮かんで
鳥が飛び 風が吹く
日暮れになったら
おなかの夕陽ヶ丘に
まっかな太陽が沈んでいった
暗くなったら そら
星をたたえて
インディゴブルーが広がる
そらで満たされたおなかを抱えて
寝ている間に朝が来て
また
そら
空腹のそら
ああ 青いそらが広がる空腹
・・・広すぎる
なにか食べたい
毒リンゴでもいいから
「おなかが空っぽになって」「そらがおなかに降りてきた」というおもしろい作品ですが、「空腹のそら」は「・・・広すぎ」ます。空は「無限なものでいっぱい」なのに満たされないということをこの詩は謂っているように思います。身の丈に合った「おなか」を、ということでしょうか。たとえ「毒リンゴでもいいから」「なにか食べたい」という最終連が人間臭くて、やはり佳いですね。「そらで満たされたおなか」では生きていけないことを逆説的に教えてくれる作品だと思いました。
○季刊詩誌『タルタ』4号 |
2008.2.20 埼玉県坂戸市 千木貢氏方・タルタの会発行 非売品 |
<目次>
小特集・米川征詩集『腑』
【書評】わからなさ、について…草野信子 2
【作品抄】腑 モップ ノラさんに会った 映画とか 枠と内外 下郷へ 8
田中裕子…Edge 14 柳生じゅん子…そら豆 17
峰岸了子…旅のさなか 20 千木 貢…海峡 24
現代詩のいま
米川 征…言葉/自己 26 柳生じゅん子…詩を読むよろこび 28
*
田中裕子…樹 33 峰岸了子…だれかとおもえば 36
柳生じゅん子…冬のひかりが 38 伊藤眞理子…イエローリスト 41
詩論 千木 貢…可能性としての詩的現実 44
樹/田中裕子
樹という字は
こまかな枝の間から
木漏れ日がまぶしいと 思わせる字だ
光を鏡で伝える遊びに
不器用な小枝がおどろいて
一枚よけいに葉を落とした
樹の字を伝えられた子どもたちは
どんな大樹の下を歩き
何に気づいて自らの樹を見上げるだろう
樹は 枯れる
そんな先のことまで思わずに 名前をつけた
自分たちにすらそんな未来があると
気づかない若い樹だった
梢から一直線
駆けおりた栗鼠が 幹の途中でピタリ
どんな時間が実ったのか
樹木の小さなたまごが パス ポツッ
落ち葉の層にもぐり込む
そうやってつむがれてきたのだ
はじめとおわりをくっつけて
おまえとわたしをひき会わせて
気落ちした朝も 目玉焼きは笑っていたりして
一画一画に虫や鳥を住まわせて
風通しもよさそうだ
梢のてっぺんから
いつか広い海を見わたす日も来るだろう
杖にも棺にも薪にだってなって
還る先までつき添ってくれる
深いと思った憎しみでさえ
葉が裏返るように消えてしまうことがある
そんな言葉も
この枝にかけておくね
「樹という字」を「こまかな枝の間から/木漏れ日がまぶしいと 思わせる字だ」、「一画一画に虫や鳥を住まわせて/風通しもよさそうだ」と捉える感受性に新鮮さを感じます。「樹の字を伝えられた子どもたち」とは、樹を含む「名前をつけ」られた子どもたちのことでしょうか。「自分たちにすらそんな未来があると/気づかない若い樹」を慈しむ気持が伝わってきます。その慈しみは最終連の「そんな言葉も/この枝にかけておくね」というフレーズによく出ていると思います。「光を鏡で伝える遊びに/不器用な小枝がおどろいて/一枚よけいに葉を落とした」、「気落ちした朝も 目玉焼きは笑っていたりして」、「深いと思った憎しみでさえ/葉が裏返るように消えてしまうことがある」などのフレーズも佳いですね。完成度の高い作品だと思いました。
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