きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.1.22 爪木崎・水仙群生




2008.2.22(金)


 日本ペンクラブの世界P.E.Nフォーラム「災害と文化」が代々木の全労済ホール/スペースゼロで始まりました。今日から25日までの4日間です。初日の今日は13時半からの開会式に引き続いて、大江健三郎会員の基調講演「文学と災害」、俳句・短歌「阪神淡路大震災を詠む」、井上ひさし前会長作朗読劇「リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン」などが行われました。私は時間の都合で朗読劇は見ませんでしたが、海外からの参加者も多く、予想より大きなイベントになったなと思います。前売り券の申し込みを一応、ネットでやりましたが、どうせ当日券も余っているだろうとタカをくくって出かけていきましたけど、とんでもない、完売していました。500人収容のホールが満席だったのです。

 このまま帰るのも悔しいので、事務局が詰めている部屋に行って窮状を訴えましたら、スタッフ証をくれました。席が空いていれば座ってもいいけど、満席になったら立ち見にしてくださいという注意を受けて、なんとか会場に滑り込むことができました。日頃から事務局員とは接していますので、謂わば顔パス。ちょっとズルだなと思いましたが、少なくとも大江さんの講演だけでも聞きたい一心で、ゴメンナサイ、紛れ込んでしまいました(でも立ち見に徹しましたよ)。

 大江さんの講演は良かったです。子どもの頃に大きな台風の被害を受けた話で、基調講演にピッタリでした。大江さんの講演はボソボソと話すだけで、あまりおもしろくないという思い込みがあったのですが、そのボソボソが真に迫って惹き込まれてしまいました。ご家族の話も出てきて、生身の大江健三郎を感じました。私も読んだ『洪水はわが魂に及び』、『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』の背景、『ヒロシマ・ノート』の裏話なども出てきて、これで参加費1000円のうち500円分とは安い!と思いましたけど、タダで入っていた(^^;

 だからというわけではありませんが、満席とは言っても多少の余裕があるのが分かりましたから、講演のあとに受付に行って、1000円を払って正規の入場者証をもらってきました。
 今度は着席して俳句・短歌「阪神淡路大震災を詠む」を聴きました。俳句は黒田杏子さん、短歌は俵万智さんが選をして、朗読は俳句を下重暁子さん、短歌を加賀美幸子さんが行うというものでした。選者のお二人が句集・歌集などから阪神淡路大震災を詠んだ作品を各20ほど選んだもので、これも良かったです。もう13年も前の震災ですけど、当時の記憶がありありと甦ってきました。

 しかし残念だったのは、短歌・俳句があるのに詩が入っていなかったことです。阪神淡路大震災では関西詩人協会を中心にアンソロジーが3冊ほど出ています。それだけの仕事を詩人たちはやってきたのに、このイベントでは一切触れられませんでした。当日参加していた詩人たちから、私に対してその点のクレームも多く寄せられました。私が日本ペンクラブの詩人会員を代表する立場ではありませんから、厳しく詰め寄られても回答のしようもありませんでしたけど、日本ペンクラブの中で詩人の地位が低いことが原因だと個人的な意見を述べて勘弁してもらいました。

 地位と言うのもおかしいのですが、日頃から危惧していたことが現実になったなと思っています。小説家やエッセイスト、批評家、歌人、俳人の多くがペンクラブの理事会なり委員会に所属しています。しかし詩人は少ないのです。その理由は簡単には言えませんけど、こういう場面で詩人の発言力がないのは事実でしょう。その表れというのが私の見方です。私が事前に内容をちゃんと把握していれば(その機会はあったのに!)実行委員会に申し出ることもできたかもしれませんけど、それも怠りました。そこは責められても仕方ありません。今後の反省点として肝に銘じておきます。

 まあ、そんな悔しい場面もありましたが、第1日目はともかく大成功だったと言えるでしょう。事務局の開催までのご苦労を知っていましたから、一番喜んだのは事務局だったかもしれないなと思っています。あと3日、このまま盛会のうちに最後まで行けることを願っています。



中村不二夫氏著『現代詩展望X
−詩的言語の生成−
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2007.11.27 大阪府箕面市 詩画工房刊 2381円+税

<目次>
現代詩展望
個の営為と反戦詩の行方…8         地方分権の中の詩…15
現代文明を超える文化の力…22        詩人と食文化の詩学…29
山村暮鳥生誕一二〇周年行事…39       詩的言語の真偽…46
詩的感動と詩の評価…53           反戦詩の方法と課題…60
戦後詩と抒情精神…67            詩のボクシング考…76
古書の効用性と文学館…83          喜志邦三の芸術主義詩論…90
散文的現実と詩的現実…97          現代詩の遺産と継承…105
詩人の社会性と芸術意識…114
.        詩人と自費出版の意義…122
詩人とボランティア精神の奨め…129
.     高齢社会の中の詩人群像…136
現代郵便事情と切手…146
.          新たなる詩誌の時代への夢…154
反現代詩の根拠と「野火」…161        詩誌の原点とミニコミ新聞…169
私的・詩の読者考…176
.           反戦詩の方法と展開…184
戦後現代詩の詩的系譜…191
.         情理と言語の間…198
詩人の個と詩壇対策…205
.          詩人の社会性と反戦詩…212
詩人とボランティア精神の実践…220
.     地方詩人団体の役割と期待…227
マイノリティの視座…234
.          高銀詩選集『いま、君に詩が来たのか』…241
詩的言語の展開
前衛芸術集団「夜の会」と戦後詩…252
.    シュルレアリスムの遺産と継承…262
戦後詩のシュルレアリスム受容…270
.     魔術的リアリズム・夢と性…281
ポエジーの世界的な交易路…288
.       詩誌「列島」に現われた対日講和…291
詩誌「列島」の中の反米的主張…298
.     アレゴリー表現と反体制的姿勢…307
戦時下のキリスト者抵抗詩人…315
.      戦後詩の中のヒロシマ…324
詩的言語の生成
詩の現在と二極化現象…332
.         詩の作者=詩の読者の閉塞性…339
現代詩と超越的言語…346
.          山村暮鳥の詩の魅力…353
 初出一覧…360
 あとがき…362               表紙・装画 中島由夫



 当日私は、埋田昇二の反戦平和の生き方を念頭に、「何を書くか」の内部現実と、いかに書くか」の外部現実の関わりについて以下のように話した。内部現実は一人一人中身がちがう。だから、同じ詩というのは二つとなく、あったとすれば盗作疑惑で槍玉に上げられる。すべて、詩は内部現実の反映なのだから、人間の顔が一人一人違うように表現方法は微妙に異なり、いうなれば、詩の妙味はその微妙な内的現実の違いを読み取ることにあるといってよい。詩にとって、多くの社会派詩人が書いたり、あるいはしゃべったりしている内容は、単に見た目でわかる一元化された事実にすぎない。それらは、他の情報メディアなどで簡単に代替でき、そんなことに詩人が汗をかく必要はない。詩人の仕事は、ブッシュのイラク攻撃、北朝鮮の核開発疑惑、憲法九条改悪などの事実に隠れた真実を発見することである。

 そのことから、内部現実を詩の言葉で表出する場合、詩人がすべきことは事件のルポルタージュではなく、個人の思想・信条、経験の蓄積の開示である。広義に考えれば、神話、呪術、フロイトのいう無意識層、ユングのいう集合的無意識(原型)、宗教、自然も内部現実の範疇であるが、ここでは話が込み入ってしまうので、それらには言及しないことにする。そして、これら内部現実を外部に表わす手段が「いかに書くか」の修辞である。一定の修辞力が備わっていないと、そうした思想とか信条、経験の蓄積が内部にとどまり、スムースに詩の言葉として外部に出ていかない。詩人であれば、だれもが溢れるほどの思い、言いたいことは山ほどある。しかし、だれもがそれを思うように言葉として表現できない。そこで適当に「この程度でいいか」と妥協するか、さらにつきつめていくかどうかは、すべては当事者の思いと修辞力の強弱にかかっている。よって、詩人にとっての必要条件は、社会観察の目の鋭さではなく、「いかに書くか」の修辞の中身にかかっている。一般に社会派詩人に言えることだが、彼らは己の主張に絶対的な主義主張があって、他者からのイデオロギー批判を許す度量がない。そのことが災いし、そのまま「私の書くものは最高」ということで、修辞にも影響を及ほしているからではないのか。日本の詩壇ジャーナリズムに対し、社会派が主張をもてない理由はここにある。一般にそこでの修辞の稚拙さは、思想・信条の未発達を露呈していることも付け加えておきたい。

 しかし、一方で詩の修辞とは、あらゆる技法を自由自在に駆使できることでもない。極端にいえば、書きたいこと、主張したいこと、つまり内部現実が何もないのに、ただうまい詩がそこにあるという修辞的現在が先行してしまうことがある。それは、修辞が「何を書くか」の内部現実を書くための手段から、単なる「いかに書くか」の目的にすり変わってしまっている例だといえる。だから、学問をして古今東西の詩学に精通し、高度な修辞力を身につけただけではよい詩は生まれない。いわば、内部現実を鍛えあげた経験の蓄積が修辞を支えていなければ芸術の領域まで昇華しない。別の言葉でいえば、修辞力とは学問を越えた詩人の想像力の深さの度合いということになろうか。

 私は、以上の「何を書くか」の内的現実と、「いかに書くか」の修辞的な条件を満たしているのが埋田昇二だと思う、と述べた。文庫の解説では、それを踏まえて社会性と芸術性の統合、内部現実と外部現実の止揚としてそれらを書いた積りである。とりわけ、他の詩人にみられないのは、外部現実への対峙の方法というか、経験の蓄積の仕方の相対的事実のすごさである。
 これは以前にも「柵」で触れたことがあるが、あらためて取り上げると、埋田には「詩と歌と平和と」(二〇〇一年九月・かもがわ出版)という著書がある。まず、私の目に飛び込んできたのは序章の「被爆者でない私に『ヒロシマ』が視えるのか」の標題である。ここで埋田は、「被爆者でない私に『ヒロシマ』が視えるのか」という問いに対し、つぎのように明確に答えている。

  「もはや戦後五五年を経過して、国民の過半数は戦争そのものを体験したことのない世代であります。ですから、原爆もそして戦争もその実像を実感するためには、被爆者の証言や被爆写真・映画などの映像、或いは原爆をテーマにした絵画や音楽、文学作品によって想像力を働かすほかありません。」

 そして埋田は、反原爆の合唱組曲「青く輝く地球のために」を作詞する(作曲は木下そんき)。この歌は、一九八〇年代から今日まで、原水爆禁止世界大会や国民平和大行進のなかで、毎年の三・一ビキニデー集会(焼津市)のテーマ曲として歌い継がれているという。さらに、第五福竜丸元無線長故久保山愛吉氏、その妻すず氏の生き方に触発されて、反原爆の組曲「ビキニの海は忘れない」(作曲・高平つぐゆき・一九八六年)を作り、すず氏の死後は、その「生涯と核兵器廃絶の願いを、どうしても歌にしたいとの思いから」合唱曲「ひかりのばらは −愛吉・すずのばらによせて」(木下そんき作曲・一九九三年)を作詞する。
 埋田は、この著書の意義を「戦争体験の風化が指摘されて久しい今、平和運動・原水爆禁止運動に求められているのは『見えないものを見る』人間的な想像力を育てること」であると締め括る。いうなれば、ここで埋田は想像力の連帯を歌で行なったことになる。
 しかしながら、埋田はこうした外交姿勢をいっさい自らの詩集に投影せず、平和活動は平和活動、詩作は詩作なのである。あえて内部と外部の統合を行わない。「ひかりのばらは −愛吉・すずのばらによせて」は外部を内部に引き付け、詩集『樹海彷徨』は内部の目を外部に向けて作られた詩である。私は埋田の歌の詩を読んで、こういう方法論もあったのかと驚かされた。

 たとえば、浅野晃という詩人がいる。浅野は、戦前共産党の幹部として知られていたが、戦後は三島由紀夫も心酔するほどの民族主義者に転向した。あるいは、戦前「同期の桜」「予科練の歌」などの愛国詩を書いていた西條八十は、戦後は民主主義を謳歌するかのような「青い山脈」「山のかなたに」を書く。つまり、これらのケースは内部現実が外部現実に規定されていることを意味する。しらずしらずのうちに、言葉が外部現実の道具に堕してしまっているのである。たとえば、共産主義者がそのイデオロギーを借りて詩を書いた場合、それは必然的に政治的なプロパガンダの要素を包含してしまう。どんなに革新的なことを書いても、これでは詩の言葉としては及第点を出せず、読者からすれば、そんなことは街頭や新聞の三面記事で済ませればいいことである。

 私は埋田の詩をもって、はじめてこの内部現実と外部現実の問題が別々の次元にあることを知らされたのである。ここには、外部は外部の事象として認識し、そこでは詩とは無関係に自らが積極的に社会にアンガージュする。詩人である前に、反戦・反核は平和活動家埋田の一つの独立した意思表示であって、なんらの表現行為の手段ともなりえない。だから、あえてその活動が詩の世界で認知される必要もない。そして、内部の芸術性もまた独立した個として、極限にまで対象を詩の言葉としてしぼり込み、反戦・反核という外部現実と妥協しない。こうした姿勢からは、それが戦時下であろうと、革命政権下であろうと、揺るぎのない精神の所在がうかがえる。

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 月刊詩誌『柵』や『新・現代詩』でここ5年ほどに発表した詩論をまとめたものです。内容は非常に多岐に渡り、深く掘り下げられた論が多く、どれを紹介しようか迷うほどですが、ここではそれらの中でも詩作上で最も重要だと思う部分を転載してみました。「現代詩展望」の章にある「反戦詩の方法と展開」で、副題に−新・日本現代詩文庫『理田昇二詩集』−とあります。出版記念会でのスピーチ内容です。

 この紹介した文の中でも「事実に隠れた真実を発見すること」、「これら内部現実を外部に表わす手段が『いかに書くか』の修辞である」などは特に重要だろうと思います。また「絵画や音楽、文学作品によって想像力を働かすほかありません」という埋田さんの指摘も重要ですね。一次体験が物理的にできないのであれば、二次体験の必要性を説いています。
 本著は目次でも判りますように、詩作以外にも詩壇の現状や自費出版の話と、現役の詩人には一読の価値があります。また若い人、これからもう少し深い詩を書きたいと思っている人には必見の書と言えましょう。お薦めの1冊です。



月刊詩誌『柵』255号
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2008.2.20 大阪府箕面市
詩画工房・志賀英夫氏発行 572円+税

<目次>
現代詩展望 詩人団体の運営と提言 長野県詩人協会の復刻事業など…中村不二夫 70
沖縄文学ノート(4) ヤポネシア…森 徳治 74
流動する今日の世界の中で日本の詩とは 39…水崎野里子 78
  スイスにおける「原爆体験」 大浦天主堂「黒いマリア像」との出会い
風見鶏 村上久雄 福田 明 石田嘉幸 笠原三津子 望月苑巳 82
情況論ノート22 二人の強者の現代物語…石原 武 84
詩作品□
佐藤 勝太 錆びたピッケル 4       肌勢とみ子 牡蠣 6
柳原 省三 夜光虫の航跡 8        名古きよえ 木の呼吸を忘れていた 10
平野 秀哉 生を明らめ 12         中原 道夫 凝固 14
松田 悦子 カラス 16           前田 孝一 落ち葉散る 18
北村 愛子 このあたりの道 20       山崎  森 犀川の辺で 22
忍城 春宣 子連れ狐 24          江良亜来子 春の雪 26
南  邦和 田の神さあ 28         今泉 協子 鏡の前 30
進  一男 遠い夜明け 32         織田美沙子 心の中の深い山で 34
小城江壮智 あやまち 37          小沢 千恵 一之瀬高原 40
安森ソノ子 クリスマス・イブは 43     宇井  一 番頭さん 46
北野 明治 検眼 48            月谷小夜子 琴線 折鶴 50
鈴木 一成 都々逸もどき 52        八幡 堅造 遊びをせむとや 54
西森美智子 クリスマスの夜に 56      門林 岩雄 駅前広場 58
山口 格郎 「偽」の年 60         野老比左子 さようなら 青い鳥 62
若狭 雅裕 四季の立山 64         三木 英治 夜鷹の図 66
徐 柄 鎮 淡い光の常夜灯 68
世界文学の詩的悦楽−デイレッタント的随想21 晶子の挽歌−『白梅集』を中心に…小川聖子 86
世界の裏窓から−カリブ篇7 漂流するハイチ文学・その背景…谷口ちかえ 90
現代ベトナムの詩 レ・パム・レ『風はどこから吹く』10…水埼野里子訳 94
コクトオ覚書230 コクトオの詩想(断章/風聞)10…三木英治 96
肌勢とみ子の『そぞろ心』 精緻な技巧で心模様を表現…香野広一 98
忍城春宣『須走界隈 春の風』 風情漂う栖発見の旅…小城江壮智 100
東日本・三冊の詩集 田代卓『晩鳥の森から』 高橋次夫『雪一尺』 馬場晴世『いなくなったライオン』…中原道夫 102
西日本・三冊の詩集 加納由将『未来の散歩』 北原千代『スピリトゥス』 柿本香苗『きんいろの夜』…佐藤勝太 106
受贈図書 112 受贈詩誌 109  柵通信 110  身辺雑記 113
表紙絵 申錫弼/扉絵 中島由夫/カット 野口晋・中島由夫・申錫弼



 春の雪/江良亜来子

予報どおりではあった
彼岸の供え物の苺に
霙が降る
レースカーテンも開けたガラス戸越しの
眺めはこの世のもの
冷え込みも
湿り気も
乾燥気味だった此の世への潤い
積もりはしないだろう
天と地を繋ぐもの
凝視の眼差しは
机と椅子に憩う
降っては消え
消えては静まる
水一杯も新しくしてあの世に供える

 「彼岸の供え物の苺に/霙が降る」というのですから、墓に供えた苺に霙が降っている、それを室内から見ているのかと思いましたが、どうも違うようです。場所は自宅の室内のように感じられます。そうすると「苺に/霙が降る」というのは、結露を指しているのかもしれません。
 「冷え込みも/湿り気も/乾燥気味だった此の世への潤い」というフレーズからは達観したものが感じられます。「凝視の眼差しは/机と椅子に憩う」というフレーズにも同じ思いをしました。最終行の「水一杯も新しくしてあの世に供える」が効いています。「春の雪」を眺める、穏やかな視線の作品だと思いました。



   
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