きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2008.9.27 栃木・和紙の里




2008.10.23(木)


 特に外出予定のない日。終日いただいた本を拝読して過ごしました。



和田文雄氏著
『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる
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2008.10.30 東京都板橋区 コールサック社刊 2000円+税

<目次>
一章 花邨恢々
(かそんかいかい)
一 山折哲雄さんへの手紙 12
二 土地ことばヒドリ 19
  1 ヒドリは方言ではない 19
  2 ヒドリの用 21
三 ヨクミキキシワカリ 文学財産の改竄 24
四 ナミダのカンパイ 31
五 匡救ヒドリのナミダ 38
  1 潅漑用水のこと 38
  2「農村疲弊」とは 41
六 椿説 香椿 石すこ要垣 50
二章 宮沢一族(まき)と百姓一揆 −賢治こころのヒドリ−
一 高等農林と農学校 60
二 南部藩百姓一揆と花巻 62
  1 南部地方の飢饉 62
  2 花巻、稗貫、和賀のヒドリ一揆 63
  3 詩「郊外」の意味するもの 67
三章 同世代の二人の詩人
一 行動した詩人渋谷定輔と山峡の歌人西塔幸子 74
二『農民哀史』の渋谷定輔 76
  1 詩集『野良に叫ぶ』と『農民哀史』 76
  2 下根子の農業と渋谷の農業 82
  3 百姓ぐらし 89
  4 グスコーブドリの農業 93
三 花巻の歌人西塔幸子 98
  1 料理屋に売られた教え子 98
  2 凶作を詠う 105
四章 賢治愛着
一 愛着 112
二 松田甚次郎の来訪 118
  1 高揚する賢治 118
  2 下根子の訓え 123
  3 赤石村のヒデリ 128
  4 羅須地人協会と国民高等学校 132
  5 「盗まれた白菜の根へ」の異常さ −賢治は畢竟傲慢なのでがんす− 143
五章 イーハトーヴォ 相沢史郎の尋ねるもの
一 飢える 162
  1 デンデェラ野 162
  2 棄てる 169
  3 翻訳と方言詩または死 173
  4 百姓と肥料商 177
二 「イーハトーヴオの」 187
  1 相沢史郎の「イーハトーヴォの」 187
  2 イーハトーヴォの原型1 「イーハトーヴォの」の詩法 190
  3 イーハトーヴォの原型2 保阪嘉内への手紙 193
  4 イーハトーヴォの原型3 207
    ア 夢想と破壊 207
    イ 結核発病から 215
  5 イーハトーヴォの行くえ 223
三 子を見るに親にしかず 231
  1 荘子の「無何有の郷」 231
  2 神話「天の岩屋戸」 「天つ罪」と「国つ罪」 242
    ア 水分
(みくまり)樋放ちのこと−大沢温泉のいたずら 243
    イ 事依
(ことよさ)しのこと−立派な質商になります 245
    ウ 啼きいさちのこと−父といさかいをする 246
    エ 営田
(つくだ)を壊す−小作人と小作争議のこと 248
    オ 勝ちさびのこと−人のために死んでみせる 255
四 離農、帰農、旧離 262
  1 離農 262
  2 帰農 273
  3 旧離 276
五 イーハトーヴォの愛称語 283
六章 農村疲弊そして懼れ
一 懼れ 1 292
  1 満州につくられるイーハトーヴォ 292
  2 農民芸術の分岐点 299
  3 三度の故郷喪失−大日向村 306
二 懼れ 2 311
  1 疲弊からの脱出 311
  2 加藤完治の基督教棄教と農村教育 315
    (1)出生から『小農保護政策』まで(明治一七年〜大正二年) 315
    (2)安城農林から山形県自治講習所まで 317
    (3)『土着と背教』のこと 321
    (4)加藤の「善」の純粋性あるいは土着 327
  3 「善」加藤完治のエチカ 332
  4 「エチカ・人間の隷属、より善きもの」 334
三 懼れ 3 340
  1 『日輪兵舎』と南郷村国民高等学校 340
  2 捏造された史実・上笙一郎の偽書 347
四 懼れ 4 353
  1 「本当の百姓」への艱難 353
  2 「王冠印手帳」の悲哀 365
七章 み祭三日 そらはれわたる
主な参考文献、統計、調査資料等の一覧 380
あとがき 388




 一章 花邨恢々
(かそんかいかい)

  二 土地ことばヒドリ

  1 ヒドリは方言ではない

 ヒドリとよばれる短期または臨時的就労機会は多く土木作業、荷物の出し入れの倉荷作業、そして農繁期の集中的なもので、肉体労働など苦汗作業をさして用いている。ともに体力のすぐれた者、経験のある者が単純労働であることから重用される。ヒドリは一日働きの作業でも、雇用形態には受取りあるいは小回り、と常備型がある。前者は定められた仕事量を時間はさだめずにしあげること。後者は労働時間をさだめて、作業量は標準量とする。このとき標準量に達しない者は賃金額の減少、雇用の継続が勘案される。ともに働く人の労働意欲と労働忌避との間に成り立つ形態であり、労働が貧富を明らかにし、あるいは高等遊民とのあいだに思想と経済力の離れ具合を深刻にしていく分岐点となるものである。

 現実に、昭和初期の経済恐慌と農村の疲弊のとき匡政策のなかで重要な役割をもった公共事業となった。作業にあたっては、体力、技術と熟練度によって、有利、不利のあることは当然としても救農土木事業のなかでも現れていた。農業で働いても収穫はなく、農業以外の仕事では人格までが評価されるのがヒドリ仕事である。農業での労働ならば、顔知りのことであるし、仕事もなれている。べつに気構えることもない。しかし、土木の仕事では気苦労がある。かってこうした労働に侮蔑的な用語があった。しかし侮蔑とは逆にこうして働く人がいなくては工事はなりたたない。この人たちは労働忌避はできない状態におかれている。忌避すれば生活はできなくなる。有給休暇も社会保険もない。

 世俗で「何々殺すには、刃物はいらぬ」のとおりである。天候にかかわらず室内で働ける人たちにはこのヒドリの仕事を理解することはかなり困難といえる。現在、日本の雇用の安定は終身雇用制にあると諸外国の人たちはみているが、実際には終身雇用契約も制度も存在していない。しかも一方には臨時的、短期的な雇用のときは雇用の開始と終了の期日を明記している。従事する仕事も企画、秘密性、対外折衝を除いて、補助と肉体労働の仕事に配置し、しかもこれを雇用関係から労働者の身分としている。救農土木事業の国家予算に計上されていたものは、河川、道路、耕地整理などの土木費が主なものであった。雇用の条件は、地域ごとの慣行によることが多かったが、政治的力関係で予算の配分と、事業の実施地区、規模などなども匡救の主旨をうたがわせるものがあった。これらが、緊急で救済の公共事業でも雇用側の一方的な強い判断できめられていた。

 最近、官庁などでの区分は、特別職、一般職、常勤的非常勤職員、臨時職員などにわけられている。これらは定員制と臨時的業務にもよるが、官職、身分からの区別が裏にあるといわれている。霞ケ関の中央官庁の朝、出勤時間には局、部、課などにわけられた出勤簿が廊下におかれていて、各自が押印する出勤簿のなかに「出面表」と書いたものがある。出面は「デヅラ」であり、「デメン」であり、「ヒドリの人」たちの特別の出勤薄をさしている。多くは事業費のなかの人夫賃の費目から給料が支払らわれる。「デヅラ」とは言いえて妙といえる。面(ツラ)を現して仕事をし、賃金をうけとる。この人たちにはタダ働きの奉仕残業の強制はすくない。「ヒドリ」にゆく人には職業としての仕事があるし、日雇人として社会的地位をきめられてしまう。雇いいれる側は、顔をそろえさせ「デヅラ」を数えることですべてを済ませる。官庁の用語として明治以来、不思議もなく使われてきた公用語であることには間違いない。北海道では「デメントリ」と丁寧に使われている。

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 宮沢賢治研究の新しい観点で満ちた著作と思います。紹介したのは有名な「雨ニモマケズ」中の〈ヒデリノトキハナミダヲナガシ〉の解説
部分ですが、〈ヒデリ〉ではない、〈ヒドリ〉だ、という主張が展開されています。
 恥ずかしながら私も日照りの時は涙を流し≠ニ読んでいました。ネットで調べても、そういう解釈で書かれたサイトが多くありますから、まあ、しょうがないのかもしれませんけど、きちんと〈ヒドリ〉と書いているサイトもありました。また、〈ヒデリ〉と〈ヒドリ〉の違いの論争もあるようです。このあとの「2 ヒドリの用」章では〈日用取〉と解説されていて、日雇い仕事のことだと分かります。つまり、〈肉体労働など苦汗作業〉に従事する日雇いの〈ナミダ〉だったわけです。日照りで百姓は泣かない、むしろ稲の生長には必要なことだと分かると、この誤読は、やはり問題なのかもしれないと思いました。
 本著のサブタイトル「
――本当の百姓になる」についても多くの頁が費やされ、多角的に検証されています。賢治研究には欠かせない1冊と云えましょう。お薦めです。




詩誌『青衣』127号
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2008.9.30 東京都練馬区
青衣社・比留間一成氏発行 非売品

 目次 
<表紙>こころえ……西垣  脩       等伯の松に寄せる……上平紗恵子 2
暖炉のゆめ……………布川  鴇 4     小さな翼………………井上喜美子 7
右目と左目……………表  孝子 10     蟻になった……………表  孝子 12
入江のしるし…………河合智恵子 14
西垣脩幻花忌三十年……………… 16
 伊藤桂一  大岡 信  堀内幸枝
 立川英明  西垣 通
金星の微笑……………比留間一成 24     稲燃え盛る……………伊勢山 峻 28
<あとがき> 目次……………… 30




 こころえ/西垣 脩

一つ、とかくこの世にあるうえは
 おのれ流されの身と思いさだめて
  忍辱
(にんにく)ひとすじのほか余念あるべからず

一つ、流謫の観念もとより外証の
 手だてあるべきようなし 仮
(かり)にも
  その真偽当否を案じて悩むことなかれ

一つ、来往を説く者現在を知らず
 虚実を弁ずる者亦幻想の痛切なる
  真
(まこと)を思わず これを識るは只流人のみ

一つ、起ちて塵労に身を投じては
 鞭と罵声に動じ同ぜず 臥しては
  荒岩の冷暖を感じ潮音にゆられて眠れ

 今号は「西垣脩幻花忌三十年」となっていました。創刊編集人であった西垣脩さんが59歳の若さで亡くなって30年。著名な詩人たちやご子息の通さんの追悼文が、西垣脩という俳人・詩人の偉業を伝えています。ここでは扉詩の「こころえ」を紹介してみましたが、〈流されの身〉〈流謫の観念〉〈流人〉と、流れ≠フ思想と謂ってもよさそうな格調高い詩篇です。最終連の〈荒岩の冷暖を感じ潮音にゆられて眠れ〉というフレーズが人生の究極の心得≠ネのかもしれません。
 目次には書かれていませんが、西垣脩さんの
「涓」という詩も載っています。これはすでに拙HPで紹介していまして、とても佳い詩です。ハイパーリンクを張っておきましたので、合わせて西垣脩詩の世界をご鑑賞ください。




詩誌『六分儀』33号
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2008.10.15東京都大田区
小柳氏方・グループ<六分儀>発行 800円

<目次>
小柳玲子 灰いろの雲 1       古谷鏡子 夏の日録 4
林 立人 面(X) 8        夏目典子 ジャコメッティ展 12
樋口伸子 杞憂曲 15         島 朝夫 悔俊 18
小柳玲子 追悼 20
鶴岡善久 谷津筆記*8 顕現、岡上淑子のフォトコラージュ 25
古谷鏡子 キエフの大門 32
表紙/林 立人




 
おもて
 面(X)  林 立人

風が出て来た
(おもて)に白い絵の具を塗り重ねたが 尖り気味の頬骨に風を感じる
潮鳴りに似たざわめきが混じる 部屋にいた女三人のお喋りかもしれない
灰色が増したせいで低くなった空に 淡い茜がにじみ始めた
遠い奥の山裾に洋風の農家らしい屋根が見える
とりわけて関心はないが行ってみることにする

画面中央に寝そべった裸婦は 腕枕したまま目覚める気配がない
間もなく陽が落ちる ここに寝たままでは風邪をひきかねない
起こそうかと思いながら思いとどまった
森のニンフか妊婦かもしれない す裸の女と連れ立って
(おもて)を白絵の具で厚塗りした男が扉の前に立てば
迎えた側で尋常でないことが起こりかねないと分別した

列車もどきに長々繋がったかぶと虫に乗せてもらおうと近づく
と 連中は待っていたように一斉に動き出す 駆け寄って気づく
葬列なのだ 一様にぶ厚な喪服を着込んでいる
駅舎と思い込んでいた点在する石は 墓所のつもりだろうか
乗せてもらうわけにもいくまい
大仰な手脚の振りの割りに ぜんまいがゆるんだように進みは遅い
地を舐めるほどに顔をうつむけて進む
この後ろをとぼとぼついていくわけにはいかない
思いがけず画面の中は広いが辿りつけぬほどには見えない
物語の始まりのようにポッと灯りがつく

誰ぞが踏み固めたらしい道を七 八歩歩きはじめたところで気づく
かかとが道を離れた瞬間 進んだ歩様の分だけ
両脇の草々が道を包むように覆い隠す
過ぎた在りようを打ち消すように
一瞬前は無かったで済ませるのか 茫々と 草々が生い茂る

立ち止まれば金縛りにあったようにこのまま草々に足をとられ
五体にまつわるもので身動き出来ぬままになる予感がある
日参してきた役所の一室がよみがえる
部屋で卓袱台をかこんだ家人らが お喋りとクッキーのかけらをばら
まきながらやり過ごす風景から 散歩に出掛けるぐらいの気で
壁に掛けたフレームをまたいで石版画の画面に入ったが
こちらはえそらごと あちらは いやそんなことではなさそうだ
焦点なんぞ幾つもあってそれぞれ混在しているらしい
となればこれはもうどこまでも底の抜けたユーモア
内耳あたりにぼんやり浮かぶいくつかの焦点が
座を決めかねているのか 激しい目眩
(めまい)がおこる
近くで嗤い声が聞こえるどこか外れて止まらないのか
けたけた けたけた 機械的に繰り返される嗤いが
時を刻んでいる

かぶと虫たちの葬列は途切れることなく続く
救いを求めようにも 面
(おもて)を白く塗りつぶしたときから口も鼻もない
目もない 見えていたと思っていたのは思い込みだ
思い込みにせよ 見える
駅舎と見違えた墓石にも見えるところに立てかけた棹の先に
見慣れた凹凸で面
(おもて)の名残りらしいものがさがっている 妙に懐かしい
頬や耳ちかくの乾いた皮膚が風に吹かれる度に 石に当たって
かさりんかりり 乾いた音をたてる
時刻む嗤いにまじってかさりんかりり 鳴る かさりんかりり

不意に白いものが落ちて来た
季節外れにと思ったが雪片は地上に降りて見るまに大きく育つ
画面は白く覆われて怠惰な裸婦はやがて雪原のなかで淫微な起伏になる
金縛りのまま わたしの五体は白いものに覆われてくる

 連作「面」も今回が最終回のようです。連作ですから最初から読まないと意味が採りにくいところもありますけど、この作品の場合は単独でも成立するのではないかと思っています。〈面〉の喩は、私たちが社会生活をする上での表面的なつくろいと私は採っています。作品はその〈面〉を着けて〈壁に掛けたフレームをまたいで石版画の画面に入った〉状態と考えて良いでしょう。幻想的に見せながら〈過ぎた在りようを打ち消す〉、何者かの存在を示しているようにも思います。大人の寓話として拝読しました。



   
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