きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2009.11.3 足柄峠より箱根・大涌谷を臨んで |
2009.11.5(木)
(社)日本歌曲振興会の定期演奏会「新作歌曲の夕べ2009」に招待されて、夕方から千駄ヶ谷の津田ホールに行ってきました。全部で22曲の新作が披露されましたが、日本詩人クラブの会員も多く作詩していました。22人中9人が会員ですから、一大勢力と言ってよいかもしれません。
昨年に比べて、全体におとなしい曲が多いように感じられました。しかし、そんな中でも狩野敏也さん作詩の「親分はお人好し」は、男声と女声の掛け合いで迫力がありましたし、ゆうきあいさん作詩の「宇宙(そら)きらら」は、平岡莊太郎さんの曲も良く、冷川政利さんの歌声も抜群で、3拍子揃った作品でした。中島登さん作詩の「チェロの四季」は、四季折々が詠いこまれた秀作でしたが、伴奏はピアノという制約のためか、原作の良さが出ていなかったように思います。これがチェロならばなあ、と想像しながら拝聴しました。
歌手では草場貴子さんがよく声が通っていて、聴きやすかったです。男声では佐久間郁子さん作詩「風の使者」を歌った鴨川太郎さんが良かったです。
津田ホールは初めて行きましたが、JR千駄ヶ谷駅の目の前。音響は代々木上原のJASRACけやきホールの方が良いように感じられましたが、このロケーションの良さは捨てられません。帰りは小田急の特急を予約してありましたので、21時終演で会場を飛び出しましたけど、佳い夜でした。お呼びくださったNさん、ありがとうございました!
○吉野重雄氏詩集『隠れ里』 |
2009.9.20
岩手県岩手郡滝沢村 「堅香子」の会刊 2500円 |
<目次>
T
隠れ里
予感 8 雪の村 14 葬列 18
隠れ里 22 山襞の村 28 散骨 32
かでぇろ 38 皮膚呼吸 42
U
家族
わたしの精霊舟 48 七並ベ 52 返事 58
セピア色の記憶 62 沢内の蕨 66 大曲の花火 70
詫びる 74 県境の峠 78 湯たんぽ 84
妹 88 吹雪の村 92 Eメール 94
鉛筆削り 98 アルバム 102. 年の暮れ 106
V
遠い学び舎
ディーゼルカー 112. 北緯四十度の風 116. 索道カラカラ 122
W
終の住処
ブラックホール 130. 六月十五日の日記 136. 手帖 142
第六感 146. 鳩よ 150. お節介やき 154
木枯らし 158. めぐる季節 162
あとがき
隠れ里
あにわ ごしょ みなみはた
安庭 御所 南畑
おすけ ばば たもぎの
男助 馬場 田茂木野
山襞を登りつめたところが山伏峠
トンネルを抜ければ隠れ里
かいざわ
おおしだ わかはた
貝沢 大志田 若畑
や また こうげ えびすもり
八ツ又 高下 蛭子森
聞こえて来るのは
沢内甚句か吹雪の音か
ドブロクの匂いが
野に染み付いている
和賀岳の稜線を越えて
白い腰巻きを脱ぎ落とすように
県境から雪が降りかかると
昼だというのに
あたりは夕方の暗さ
酒好きだった義父の七回忌は
酒好きの男衆が集まり
女たちは
愚痴をこぼしながら燗つけ
塩抜きした蕨の具合や
コゴミの白和えの味加減は
本家のあばの舌に任せて
漬物小屋から
大漬けや鉈漬けを出して来るのが
この家の嫁の仕事
小止みなく降る雪の中を
雪達磨になって和尚が転がり込む
般若心経なら門前の小僧
男衆も女衆も神妙に唱えてはいるが
和尚の長説法には痺れが切れた
故人の話が何よりの供養と言われても
残っているのは
酒 酒 酒 の記憶ばかり
ウグイの焼き干で出しをとった
手打ちの蕎麦が並べば御開き
覚束ない足取りで外へ出れば
薄暗い外灯は雪でぼやけ
立ち小便をしながら
揃って南無阿弥陀仏
ああ!
隠れ里を埋め尽さんと
雪が降る
のん のん のん のん
のん のん のん のん
のん のん のん のん
のん のん のん のん
13年ぶりの第3詩集だそうです。ここではタイトルポエムを紹介してみましたが、この詩に関連したことが「あとがき」に書かれていましたので、それも紹介します。
<私の詩の原風景は、奥羽山脈の真っ直中に位置する沢内にあると考えています。
私たち一家は、太平洋戦争が始まる年の夏に、東京から岩手に疎開して来ました。この地で私は少年時代を過ごしたのです。
父は秋田県仙北郡金澤町(現=横手市)の生まれで、十歳のとき沢内に住む伯母のところに養子に貰われて来ました。母は岩手とは全く縁のない霞ケ浦の辺りの出です。
北と南、遠く離れた地で生い立った二人が東京に出て結ばれ、私たち兄弟姉妹が誕生した経緯など、述べても詮ないことは重々承知しています。今は亡き父母を思い来し方を顧みるとき、沢内は忘れがたい土地であることだけは記しておきたかったのです。
何時の頃からでしょうか、私は密かに沢内を「隠れ里」と呼ぶようになっていました。この地について記した古文書の中に、同じ呼び名があるのを見つけたとき、なぜかほっとしたことを覚えています。
「沢内甚句」発祥の地として知る人ぞ知るこの村も、現在では湯田町と合併して西和賀町と名前を変えています。>
という背景のもとに書かれた作品ですが、村に住む人たちの生活の一端を窺うことができます。〈白い腰巻きを脱ぎ落とすように/県境から雪が降りかかる〉というフレーズに、土地の風景が目に浮かぶようです。特に〈酒好きだった義父〉の〈故人の話が何よりの供養と言われても/残っているのは/酒 酒 酒 の記憶ばかり〉というフレーズが佳いですね。そして〈のん のん のん のん〉と降る雪の情景が絵のように浮かんでくる作品です。
なお、本詩集中の「セピア色の記憶」はすでに拙HPで紹介しています。ハイパーリンクを張っておきましたので、合わせて吉野重雄詩の世界をご鑑賞ください。
○詩&エッセイ『E詩』14号 |
2009.10.20
山形県山形市 芝春也氏方・E詩の会発行 非売品 |
<目次>
ピックアップ=吉本隆明「異数の世界へおりてゆく」「詩とはなにか」より
詩 十のマイナス二十一乗/いとう柚子 2
窪地/安達敏史 6
詩との出会い(作品鑑賞) さっぱり、たっぷり(工藤直子「四季」) 芝 春也 10
詩 露天風呂/阿部栄子 12
挽夏・氷のアイロニー/芝 春也 14
エッセイ
海野秋芳を聴く/いとう柚子 16
詩の生まれ方 −付・電流詩論−/芝 春也 18
詩 無明/をゝさわ英幸 24
あとがき・同人名簿
挽夏/芝 春也
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なに、これ? と思うかもしれませんが、これも立派な詩です。“セミコロン”と読んでよいと思います。作者は今号発表の「挽夏」と「氷のアイロニー」について、エッセイ「詩の生まれ方 −付・電流詩論−」で自註していますので、該当部分も紹介してみます。
<次に「挽夏」についてだが、これは夏の盛り、お盆に入る少し前に生まれた。今年は庭の樹木でミンミン蝉がうるさいほどよく鳴いた。蝉の脱け殻を孫娘がときどき見つけて拾ってきたりした。
この作品は、そんな日の夕方、道端で仰向けに転がっている哀れな蝉の死骸がふと脳裡に浮かび、それが直ぐさま英文で使う記号=(セミコロン)と結びついて、ほとんど一瞬にして出来上がった。題名は「晩夏」にしようか「初秋」にしようか「夏の終り」にしようかなどと少し迷ったが、いずれも当たり前すぎて面白味がないのでちょっと稔って「挽夏」とした(PCの変換ミスではない)。季節の詩ではあるが、季節の情趣を主眼としたものではない、のだが…。
今年の六月は親族の結婚式も二つあったが、縁戚の人の急死があいつぎ、いささか愕然とした。幾分かはそこに古希を迎えた自分自身を重ねたりしていたかもしれない。テレビや新聞で、あの人が…と思うような芸能人や政治家の死も気にかかった。
そうしたいきさつの一方で、詩作面ではちょっとウィットのきいた短詩をつくってみたいという思いがしばらく前からずうっと意識に潜在していた。
この経験と意識のふたつが、ひとつの季節の短詩として結合したのだと思う。もちろん頭の片隅には草野心平の「冬眠・●」という超絶短詩も明滅していたが、それと張り合おうなどという意識があったわけではない。出来上がったものを比べると「冬眠」はあきらかに視覚的だが、「挽夏」のほうは聴覚と視覚の統合になっている。>
つまり“セミコロン”は“蝉コロン”であったわけです。この〈一瞬にして出来上がった〉という閃きも詩には大事な要素だと思っています。昔、ある詩人から“詩の本質は抒情だ”と言われて、私の作品を非難されたことがありまして、それはその通りでしょうが、抒情詩もあれば叙事詩もある、閃きの詩もあると私は内心で反発したことを思い出しました。詩はこうであらねばならない、と思った瞬間に衰退するものではないかとも愚考しています。その意味でも「挽夏」は立派な詩だと言いたいわけです。
それにしても〈;〉の1文字で、作者と私がこれだけの分量の文字を連ねる、それも素晴らしいことだと思います。
○詩誌『プラットホーム』7番線 |
2009.11.2
神奈川県藤沢市 田中聖子氏ほか・プラットホーム舎編集 300円 |
<目次>
《詩》
雪片 田中聖子 4 雪の帽子 田中聖子 6
Song(C・ロセッティ)訳=田中聖子 8 父の帽子 近藤明理 10
見上げていたもの 近藤明理 14 夏の朝の 宮本智子 16
短詩 三題 宮本智子 20. 〈物語詩〉緑の目. 梨早苗 24
《エッセイ》
自称さまざま 田中聖子 32 猫は役に立つか 近藤明理 34
席を譲る 宮本智子 36 裏庭のいちじく 梨早苗 38
雪片/田中聖子
書斎の窓の灯りが
カーテンの隙間から漏れていたので
群れから離れて 舞い降りていきました
あなたは私の方を見て
雪か と呟きました
窓硝子にとまった私を見詰めたわけでもないのに
なぜか身のすくむ思い
仲間が呼んでいるのに動くことができませんでした
暖かく燃える暖炉の火
飲みかけのティーカップ
山積の書物や綴じられた資料
すっかり寝静まった街がここだけ目覚めているのです
もう皆 地上に降り着いたころでしょう
私は朝の陽を迎え、溶けていくばかり
あなたの横顔を通る思惟の行方を辿れないまま
私はあなたの窓で 明日を待たずに消える
ひとつぶの涙
硝子に跡形も残らない
主語はタイトル通り〈雪片〉ですが、一読して、奇麗な詩だなと思いました。次に、メルヘンと呼べるかもしれないと思いましたが、すぐにそう呼んではいけないと感じました。奇麗なだけではなく、ここには〈あなた〉という人間が存在感を持っているのです。これは〈雪片〉の“片恋”と謂ってもよいでしょう。人間の女性でも、これだけの“失恋”の詩は書けないと思います。〈朝の陽を迎え、溶けていくばかり〉、〈明日を待たずに消える/ひとつぶの涙/硝子に跡形も残らない〉雪片がいとおしくなるような作品です。