きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2009.12.7 神奈川県湯河原町・幕山




2010.1.13(水)


 吉村昭さんの小説に『闇を裂く道』(文春文庫)があります。完成までに16年の歳月を要した東海道線丹那トンネルを描いた長編小説ですが、工事途中で関東大震災(1923年)と北伊豆地震(1930年)という大きな地震に見舞われています。特に北伊豆地震では坑内で断層が2.44m動いたことが確認されて、地震学的にも興味深いことだろうと思います。
 この小説を読んだあとに、静岡県函南町の丹那盆地には断層が保存されていることを何かで知りました。一度訪れてみたいものだと思って数年が経ち、今日はようやくその念願が叶いました。

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 断層が確認される地点は、1935年に国指定天然記念物となって、地表に現れた水平移動が分かるようになっていました。また、写真のような断層地下観察室も建てられており、誰もが地震の威力を見せつけられると思います。上の写真では全体が写っていませんけど、左下の石が水平移動を示す一部で、石組みのゴミ捨て場が2m余り移動しているのがよく分かります。怖ろしいほどの力を感じて唖然とするばかりでした。

 丹那盆地は、むかしパラグライダーで遊んでいた頃、箱根の伊豆スカイラインから飛び出して、最終的な着陸地点でした。上空から駿河湾を眺め、熱函道路を走るクルマを見下ろしながらの気持ちの良い空域でしたが、その頃は丹那断層のことなどまったく知りませんでした。浅学を恥じるばかりですけど、断層も頭に入れながら飛んでいれば、もっと違った景色に見えただろうと悔いています。
 一度訪れてみてください。JR函南駅からクルマで約15分で、地球のドラマを感じることができると思います。




遠丸立氏編『進一男詩集』方向感覚叢書6
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1999.4.30 東京都調布市 方向感覚出版刊 武蔵野書房発売
1800円+税

<目次> 絵・進ありこ
詩集
〈聖なる夜のために〉から
(目を上げて耳を澄ましなさい) 8      (これは夢か) 11
(ここに一人の男眠る かつて逆らわず而も従わざりし者なり) 14
(黒衣の男) 17               (夜の狂気よ) 20
詩集
〈島ふたたびその他の詩〉から
島ふたたび 24    赤土の山 27     静物 28
花に就いて 28    日常の中で 32    地を這う 34
チェーホフのこと 35 杉の子 37      つばくろ 40
内なる島へ 43
詩集
〈豚と私と〉から
豚でさえ 48     豚のこと 49     豚の擁護 51
いとしの豚よ 53   豚よ吠えろ 56    白豚と黒豚 58
黒豚物語 61
詩集
〈何処からかやってきて〉から
6(顔) 64      10(時間) 65     16(騎士) 66
17(絵巻) 67     20(千代) 68     21(またも月) 69
22(老女) 70     23(対話) 71     32(かまきり) 72
34(会堂にて) 73   35(音光色形) 74   41(師) 75
49(流謫) 76     50(生) 77
詩集
〈カナとの対話〉から
カナと私のための幾つかの詩篇
1(カナ 私は何時もお前に) 78       2(母の名は信江と言った) 80
3(カナよ 死者であるもの) 83       4(私の魂よ 何を求めようとしてか) 85
カナの記憶に就いて書かれたことなど
1(一本の樹が立っている) 88        2(それでは始めるとしようか) 90
3(カナとは何であるか) 93
未刊詩集
〈題未定〉から
逆立ち 96      海の音 98      創世記 100
顔 102
.       空 空 空 104.   阿 具 理 106
縮んで 109
.     桃が流れない 111
進一男略年譜 113
解説 遠丸 立 114




 
空 空 空

ここに空があります
これはある駐車場の立札

確かにここには空きがある
空いたコンクリートの地肌の真上に
めくるめく輝く空がある
ここには空があります
これは駐車場の立札ではない

空からは光が降りそそぎ
辺り一面に照り映える
空には届きそうで
届かない

ここにはいつも空がある
人生すべて空であるのか
胸の中に空洞を抱えて
私はいつも空しさをかみしめる

しかしここには空があります
忘れられてしまったようで
それでも樹木が垂直に伸びて行くあの
深い深い空がある

 先日亡くなった遠丸立さんの関連資料として武蔵野書房さんより頂戴しました。進一男さんの詩集は何冊もいただいていますが、この詩集は最も古いものとなりました。紹介した詩は進一男詩を代表するような作品ではありませんけれど、着想がおもしろいと思いました。ソラと〈駐車場〉のアキとを重ねて、進一男という詩人の思考の柔軟さを示していると云えるでしょう。第4連の〈胸の中に空洞を抱えて〉というフレーズからはこの詩人の根源を感じ取っています。
 なお、本詩集中の
「縮んで」はすでに拙HPで紹介しています。ハイパーリンクを張っておきましたので、合わせて進一男詩の世界をご鑑賞ください。




村上文昭氏著『ヘボン先生、平文(へぼん)さん』
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2009.8.8 東京都八王子市 武蔵野書房刊 1600円+税

<目次>
序文 大西晴樹(明治学院大学学長)…………3
一、米人平文
(へぼん)さんは名医…………………11
1.女形・田之助の脱疽…………………………11  2.高橋お伝と平文さん…………………………20
3.英人殺害犯とヘボン先生……………………25  4.コレラが大流行………………………………28
二、心かよわすヘボンさん………………………33
1.奥野昌綱のヘボン……………………………33  2.ヘボン夫妻だけの初礼拝……………………56
3.フェリスのエンジェルと池亨吉……………62
三、いまに残るもの………………………………67
1.著書訳書は多数………………………………67  2.ヘボンが使用した教科書……………………75
3.ヘボンの肖像写真……………………………77  4.金谷カティヂイン……………………………81
四、ヘボンさん余滴………………………………85
1.ヘボン施療図のこと…………………………85  2.喜劇王エノケンの脱疽と息子………………91
3.岡本綺堂の「ヘボン先生」…………………94  4.高谷道男先生のカバン………………………96
5.「ヘボンさん」という詩ほか………………99  6.ヘプバーンさん………………………………108
7.「ヘボン資料集」あとがき…………………110
. 8.成仏寺の写真…………………………………113
9.ヘボンの伝記を読む…………………………117
. 10.『ヘボン物語』書評と紹介(要約)と目次…126
11.話の前置きとして……………………………138
. 12.ヘボンについて話す…………………………140
13.原豊著『ヘボン塾につらなる人々』………142
. 14.『ドクトル・ヘボン』への書きこみ………145
15.入学してみれば………………………………147
. 16.「ああ」……和英辞書購ふ…………………149
17.肖像画と胸像…………………………………151
. 18.折々のヘボン…………………………………153
五、ヘボンさんと散歩……………………………161
成仏寺――宗興寺――本覚寺――高島学校・修文館跡――指路教会――幕府運上所跡――横浜海岸教会――ヘボン邸跡――山手ヘボン邸跡――外国人墓地――新約聖書和訳記念の地・ブラウン邸跡(共立学園)
ヘボンの略年譜……………………………………177
あとがき……………………………………………180




 四、ヘボンさん余滴

 3・岡本綺堂の「ヘボン先生」

 岡本綺堂といえば『修善寺物語』の劇作家だが、近年は捕物ブームで捕物ものの元祖である『半七捕物帳』六十八編が読まれている。
 最近になって、『五色筆』(大正六年)という随筆集に「一日一筆」の(二)として「ヘボン先生」が入っていると知り、読むことができた。長さは一〇〇〇字ほどの短い文章で、ヘボンが編んだ「和英字書」にまつわる思い出をつづったもの。まだ十五歳の中学生のころ、古本屋の店先にある雑書の中からその字書をみつけて、欲しいとおもいつつ、二円五十銭の値を聞いては、どうにもならない。綺堂少年は帰りの途中、次のようなウソを父に向かってつくことを思いついた。

  學校では今月から會話の稽古が始まつた。英語の書物を読むには英和の字書で済む
 が、英語の會話を學ぶには和英の字書が無くては成らぬ。就てはヘボン先生の和英字
 書を買つて貰ひたい。殊に會話受持のチャペルと云ふ教師は、非常に点数の辛い人で
 あるから、會話の成績が悪いと或は落第するかも知れぬと實事虚事
(まことそらごと)打混ぜて哀訴嘆願
 に及ぶと、案じるよりも産むが易く、ヘボンの字書なら買っても可いと云ふことにな
 って、すぐに二圓五十銭を渡された。父は私の申立を一から十まで信用したか何うか
 判らないが、兎に角にヘボンの字書ならば買つて置いても損は無いと云ふ料見であつ
 たらしい。其當時に於ける彼の字書の信用は偉いものであつた。

 このあとの要約。今日、ヘボン先生の訃音を聞くと同時に、今は書斎の隅に押しこまれている字書をにわかに思い出して、その埃りを払った。その父は十年前に死んだとある。
 短いが、なかなかしんみりさせる話である。  『羽鳥通信』第六号(一九九九・二)

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 ヘボン式ローマ字、あるいは明治学院初代総理として著名なヘボン博士(正式にはJ.C.ヘプバーン)の評伝です。著者にはすでに『ヘボン物語−明治文化の中のヘボン像』(教文館)という著作がありますが、枚数の関係で収録できなかった部分を中心に、今回1冊にまとめたそうです。前著では人名辞書や教科書に記載されている、謂わば表の顔を記述したが、今回は庶民的な人柄を紹介したとあとがきにありました。

 ここで紹介したのは<岡本綺堂の「ヘボン先生」>ですが、あの綺堂が嘘を言ってまで手に入れたかった〈ヘボンが編んだ「和英字書」〉は、幕末の1859(安政6)年に来日してから8年後に刊行したもので、日本初の和英辞書『和英語林集成』のことです。当時の〈彼の字書の信用は偉いものであつた〉ことがよく伝わってきます。
 なお、本著には日本詩人クラブや西さがみ文芸愛好会の会員も登場しています。肩の凝らない読みやすい文章とともに、その面でも興味深く拝読しました。ヘボン研究にはお薦めの1冊です。




梶野吉郎氏小説集『終中無辺 −スタン変奏
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2009.8.8 東京都八王子市 武蔵野書房刊 2000円+税

<目次>
終中無辺………………………………………………………5
アンリ・ドミニック・コトネの夕方の虹のような一日…93
特権……………………………………………………………167
時の重なる町…………………………………………………229
あとがき………………………………………………………295
跋――少年期の思い 月村敏行……………………………298




 
終中無辺

  1

 彼は三月二十二日の夕刻七時、ヌーヴ・デ・キャピュシーヌ通りの歩道でたおれた。外務省の門を出て、ホテルのある左手にまがり、数歩ふみだしたところであった。
 この時期にしてはめずらしいほどおだやかな晩で、建物や舗道の石にはまだ日中のぬくもりが残っていた。外務省の玄関をでて、ステップの階段を降りたとき、彼はいちど立ち止まり、空を見上げた。それからゆっくり視線をまわして、背後の建物をふりかえった。空にはまばらに星がまたたき、その昔コロナード邸とよばれ、ボナパルトがジョゼフィーヌと結婚するまで住んでいた館の列柱が、宵闇のなかに浮かびでていた。彼はそのほのかに白い影を確認するように眺めてから、ゆっくりと中庭を横切り、門に向かった。
 通りは暗く、人影はまばらだった。一瞬、彼は右に行こうかとためらった。まだ宵の口だ。キャピュシーヌ大通りにでて、行きつけのカフェに行けば、誰かに会えるだろう。それともアシル夫人に会いに行こうか。だが結局、思いとどまった。今晩はホテルにもどろう。頭痛がはじまっていた。いつもどおりの宵を過ごすこともあるまい。そう自分に言いきかせて左手にまがったとき、冷たい風が頬をかすめ、マントの裾をなびかせた。彼はそれが癖の、左手の親指をマントのポケットにかけた姿勢で、右手をこめかみにちかづけ、ふっと息をついた。その晩のおだやかさとは異質なその風に、感動に似た不思議な心地よさを覚えたからだ。なにか遠くの、懐かしいものに触れたような感覚だった。おや、と思ったとき、彼の体は身ぶるいしており、眼にひとつの星が映った。そして彼は舞うように回転しながら、崩れ落ちた。
 その崩れ落ちる瞬間、体が宙に浮いたとき、彼は風の感覚がなにに結びついていたのか、理解した。都会の夜の暗さと、闇のなかの列柱の建物と、風の冷たさが、ひとつの体験の記憶であったことを理解した。広場をへだてた向かいの家の壁に身をよせて、彼女の部屋の窓を見つめて過ごしたときのものだ。その昔の感覚がはっきり彼によみがえったとき、彼の体は歩道に落ちていた。

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 17歳でスタンダールに出会って以来、半世紀以上スタンダール研究を続けて、1963年からは6年余も渡仏したという著者の、スタンダール晩年をモチーフにした小説集です。「特権」ではフレデリック・スタン、「時の重なる町」にはアンリ・スタンという名が出てきますが、いずれもスタンダールを前提としていると思って間違いないでしょう。そこから副題の「
スタン変奏」が来ていると思われます。4編ともフランスを中心とするヨーロッパが舞台で、最後の1編が現代である以外は18世紀という時代設定です。日本の作家としては珍しい設定ではないかと思います。

 ここでは巻頭の「終中無辺」第1章の第1節のみを紹介してみました。〈彼〉をスタンダールと採ってよいでしょう。おそらく脳梗塞か脳溢血で〈舞うように回転しながら、崩れ落ちた〉のだと思いますが、情景描写と言い、人物像と言い、短い文章の中に凝縮させる力に圧倒されます。このあとの経緯、結末もおもしろく一気に読ませます。他の3編も人間の深層心理に迫り、意外な結末にも納得させられる傑作ばかりでした。小説とは何かを感じさせられる好著、お薦めです。






   
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