きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2008.8.28 松島 |
2008.9.29(月)
夕方から大泉学園のゆめりあホールで開催された「高橋通作品展・歌曲の夕べ」に行ってきました。知り合いの詩人の作品が歌曲として歌われるというので招待されたものですが、その詩人のほかにも多くの詩人の作品が歌われました。その半数が機知の人たちでしたから、余計に親しみを感じましたね。
舞台はピアノと琴の伴奏が主で、歌手はマイクなし。300人ほどの小さなホールですからマイクも必要ないのでしょうが、やはり肉声は聴いていて心地良いです。歌曲と琴の組み合わせを初めて聴きましたけど、これもいいものでした。一番良かったのはピアノと筝の合奏にテノール。詩はともかくとして、肉声と合奏が見事なハーモニーを出していて、うっとりしてしまいましたね。
音楽の分野では、言葉はまだまだ負けているのかもしれません。しかし、それだからこそ言葉にこだわりたいですね。人間の思考で基本となるのは言葉だろうと思います。情緒の音と思考の言葉。この二つが絶妙なバランスで組み合わされる、そんな夢のような刺激を与えられた「歌曲の夕べ」でした。
で、帰宅途中のロマンスーで、父親が緊急入院したというメール。父親は1週間ほど前から妹宅に滞在していますが、肺炎をこじられせて救急車を呼んだとのことでした。今夜、私が駆けつける必要はなさそうですが、もう86歳。いつ何があってもおかしくない年齢です。音だ言葉だと言っている間に現実はどんどんと進んでいます。私も最悪の事態をいつも考えておかなくてはならない年代なのかもしれません。
○森哲弥氏詩集『ダーウィン十七世』 |
2008.10.1 大阪市北区 編集工房ノア刊 2000円+税 |
<目次>
対流飛行船《銀鯨》幻想異聞 6
テクネ・「博物誌」解題 22
一片の黙示録 34
ダーウィン十七世 50
シーラカンスの鱗 64
眼球蟲彷徨 76
先古代のサイコ・ロケットは今も宇宙・無限の海を游するか 92
原始力発電所 124
*
世界の八つの断面 苗村吉昭 150
あとがき 157
カバー装画 小嶋悠司
装幀 森本良成
写真 松田征夫
ダーウィン十七世
1・顔
顔という観方(みかた)があるとして、蜻蜒(やんま)の顔、蚤の顔、蠍(さそり)の顔、
蜘蛛の顔、蟹の顔などが、人の顔大に拡大されて眼前に
ぬっと現れたとき、人は精神に動揺をきたすであろう。
得も言えぬ恐怖に苛(さいな)まれるであろう。猛り狂う野獣の形
相も、歯牙をむき出しにして突進してくる頬白鮫も、も
のの数ではない。人が、自らが知る顔からは想像だにで
きないほどかけ離れた異形(いぎょう)の相貌。しかしそれをしも
「顔」と認識してしまう知の宿命のために、人は底無し
の恐怖を感じる。彼らは、形態そのものが人知をこえた
歪みをもち、 しかも 危うい 均整
を秘めて人の意識に
「顔」を貼り付けるのである。見まいとして視線をそら
せた瞬間に、その「顔」は、なお色濃く網膜に焼き付け
られるのである。
2・僥倖
人が彼らに怯えて暮らすことはなかったし、これからも
それは変わらぬであろう。ときに彼らの仲間に毒針を潜
ませるものがいても、彼らは一部の例外を除いて所詮小
動物、微小動物でしかない。彼らの体が小さいまま据え
置かれていることは、人にとっては言い尽せぬ僥倖であ
ろう。なぜならもし彼らが、現生哺乳類と同等の体躯を
擁すれば、人は恐怖に苛まれ、逃げ惑い、怯えた瞳で生
きるのが精一杯、洞窟画も、楔形(くさびがた)文字も残さぬ状態で、
食虫目の影を引きずったままの生活に永々と甘んじなけ
ればならなかったであろうから。
3・分け方
背骨の有るものと無いもの、それは人にとって解りやす
い動物の分け方であった。この説に異を唱える学者はい
ない。だが棲息数、形態や生態の多様性において、脊椎
動物は無脊椎動物に遠く及ばない。だとすれば、その分
け方は人の知の傾きから生じた偏りによるものではない
か。知の傾き加減によっては、まったく異なった観点で
動物界は分けられていたであろう。
4・名
その名前から想像できるコーカソイドの印象は、鼻梁(びりょう)に
わずかの影を残してはいるもののもはや希薄である。彼
の相貌は光の当たり具合によってときにメディタレイニ
アン系に見えたりノルディック系の陰影を秘めていたり
するが、人類史の幾多のエポックを経てきて現前してい
るそれは、モンゴロイドの様相を呈している。彼がこの
極東の島国へきた経緯について知るものは殆どいない。
「ダーウィン十七世」という名称が、かの大博物学者チ
ャールズ・ダーウィンの血筋と何等の関係があるのかど
うか、それは殆ど無関係だろうとの通説の裏に「あるい
は」と感じさせる部分を残していて確定にはいたってい
ない。彼は或る財団の後ろ盾を得て、生物学の研究をし
ている。アカデミズムとは距離を置き、それと抗うこと
もなく、しかし大胆に持説を展開していくのである。
第51回H氏賞詩人の第7詩集です。全8編が叙事散文詩という異色の詩集で、SF小説を読むように楽しみました。しかし、単なるSF小説ではありません。解説の苗村吉昭氏の言葉を借りれば〈世界の八つの断面〉を切り取りながら人間を描くという詩篇です。ここではタイトルポエムの冒頭を紹介してみました。「4・名」においてようやく「ダーウィン十七世」が登場します。このあと「5・失踪」、「6・博物学的探求」、「7・猫」、「8・造化の意志」、「9・呪医」、「10・根源の泉」、「11・混在」、「12・蜘蛛の顔」と続いて物語≠ヘ終わりますけど、著作権も考慮して割愛します。カオスの中に〈混在〉した遺伝子を生物として作り上げる〈根源の泉〉の存在など、森哲弥詩の独断場といえるおもしろさは、ぜひ手に取って読んでみてください。
紹介した「1・顔」の〈人の顔大に拡大されて眼前に/ぬっと現れ〉る昆虫、「3・分け方」の〈その分/け方は人の知の傾きから生じた偏りによるものではない/か。〉などの発想に森哲弥詩の魅力があると思っています。なお、「眼球蟲彷徨」のうち「1・視力喪失区」、「原始力発電所」のうちの「3・エネルギー危機」はすでに拙HPで紹介しています。全編を通して読まないと各々の詩の魅力を感じることはできませんが、ハイパーリンクを張っておきましたので、その魅力の一端でもご鑑賞ください。
また、紹介した詩のルビはきれいに表現できませんので( )に入れてあります。そのため原本より見苦しい形になってしまいましたが、どうぞご海容ください。
○詩誌『韻』16号 |
2008.10.1 北海道岩見沢市 グループ韻・菅原みえ子氏発行 非売品 |
<目次>
齋藤 たえ 緑寿園…1 菜の花まつりの町…5 達磨…7
菅原 みえ子 みどりご…9 あまつぶ…11 煙はコオコさんから…12
ふじさわ あい 吊り橋…13 ドアー…14 語り…15
会員名簿
あとがき ●表紙題字 平田愛子
煙はコオコさんから/菅原みえ子
誰かさん から ひらりと一本
「たまには 毒も入れないとね」
紫煙たなびかせ のたもう
わたしを束ねないで≠フ詩人
『偲ぶ会』のお役目終え
ほっと 一服
ラ・メールの魚たち
身を寄せる 飯田橋のDOMA DOMA
稲穂も ひとすじ 土間そよぐ
―――煙草喫むなら 肺ガン覚悟
酒を呑むなら アル中覚悟
呑み方が足りない
ヒキョーモノ―――
コオコ
美剣士の幸子さん
凛とした構えから
べそをかく幼な子のように
こぼれてしまう やさしさと かなしさ
人魚となって 還って往った
あの夜のひとこと
いまも 烟りつづけ
毒≠ヘ 甘酸っぱく
あれは 相棒*の新川和江さんから
看板娘* 吉原幸子さんへの
密やかな 献煙ではなかったか
煙は
コオコさんから 流れてきた
*2003・1・11吉原幸子さんを偲ぶ会
*ラ・メール主宰のお二人は互いをこう呼んだ
〈2003・1・11吉原幸子さんを偲ぶ会〉でのことをモチーフにしていますが、第4連が活きていると思います。私も生前一度だけ吉原さんのご自宅、新宿の「水族館」に行ったことがありますけど、確かに〈煙草喫むなら 肺ガン覚悟/酒を呑むなら アル中覚悟〉のような状態でしたね。その晩は結局泊り込んで、朝の4時か5時頃まで呑んでいたことを覚えています。
新川さんとはそれほど親しくお話しさせてもらったわけではありませんが、「たまには 毒も入れないとね」という言葉はいかにも新川さんらしいなと思います。毒も薬も合わせて飲んでしまうのが新川詩の魅力ではないかと、この作品を読んでつくづく思いました。作品は〈相棒〉と〈看板娘〉の親交を伝えている佳品と云えましょう。特に最終連が見事に決まったと感じました。
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