きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
tsuribashi
吊橋・長い道程




2007.12.15(土)


 その5  
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中島和夫氏著『ある魂の履歴書』
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1988.9.13 東京都国分寺市 武蔵野書房刊 1800円

<目次>
ある魂の履歴書 5      ピンクのハンチング 77
悲しみの創作 151      あとがき 217



 引き続いて、今回は文芸ジャーナリズムに生き死にした人間のゆくたてというか運命を描き、三本の小説集に纏めた。ともあれ、私はこの世界に三十数年を生きてきたのだ。いまむかしを問わず、多少の事は知っている。ここを舞台にすることは、もっとも手答えがあったからである。私は、当分、この世界を中心にやって行かねばならぬだろう、と思っている。収めたものはすべて書きおろしである。

 最初の「ある魂の履歴書」の「Kさん」は、明らさまにいえば、本年一月に亡くなった小説家の耕治人氏である。悲惨といっていいか、悲壮といっていいか、氏の劇的な死は記憶にある方もおおいかと思う。いうまでもない、小説化するに当って、構造や、時間の処理などに意をはらったが、これはまごうかたない私小説である。耕氏の場合、私小説以外には書きようがない、いや、作りもののいわゆる虚構小説は氏を冒漬するかも知れない、私は極端な偏見をすらもっているくらいだ。耕氏の火葬(葬儀はついに取り行なわれることはなかった)の三日後、私は、あたかも氏の弔い合戦に臨むような気持で書き始めた。
 「ピンクのハンチング」と「悲しみの創作」とは、両者ともモデルはあるが、作者の側において、自由に、勝手に創った。二つともかねがねこころに留めていたものだ。

 これらの主人公を、私は、意識的に「私」「那珂」「彼」というように使いわけてみた。人称が変化することで、作品の上で具体的にどう変化が起きるか、あるいは起きないのか、そこのところが私には判らない。ご教示いただければありがたい。
 そんなわけで、今回の小説集は、強いていえば、ひとつながりの連作ととられてよい。しかし、実はそういうしゃらくさい理屈はどうでもいい、作品がすべてだろう、さまで意味あることとも思われない。

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 著者は長年『群像』の編集者・編集長を続けた方で、付き合いのあった作家をモデルにして定年退職後に書き上げた中篇小説集です。3篇とも魅力的な小説で、大手出版社の編集者と接触のない私などは垂涎の思いで読んでしまいました。作家と編集者との関わりにも興味をそそられましたが、この本が出版されて20年、今は趣もだいぶ違うだろうなとも思います。
 紹介したのは「あとがき」の中盤部分です。冒頭の「引き続いて」の意味は、本著に先立つ2年前に、正宗白鳥・広津和郎・尾崎一雄・中野重治・遠藤周作ら17人を論じたエッセイ集『文学者における人間の研究』を刊行したことを指しています。ここでも書かれていますように耕治人のやっかいな性格に業を煮やしながらも付き合った「ある魂の履歴書」、著者の故郷の中学時代からの憧れの先輩が転落していく「ピンクのハンチング」、講談社の社外記者として穴埋め記事などを担当するコーショーサンこと巌山弘章の直木賞候補捏造など、魅力的な「文学に憑かれて、その毒をしたたかに受けた」人たち(吉行淳之介跋)が刻印されている好著です。『文学者における人間の研究』も合わせて読みたくなる1冊です。



富岡知子氏著『我が家のバートルビー』
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2007.10.10 東京都八王子市 武蔵野書房刊 1500円+税

<目次>
里山グリーンランド…5
.           豊作…45
我が家のバートルビー…59          コップ…91
伊豆箱根…105
.               髪…130
あとがき…166
跋 三つの、不安定なもの 月村敏行…167



 昼すぎに哲也を寝かせ、部屋のかたづけを始めるころ、「おじさん」が勝手口から入ってくる。脇に洗面器を抱え、甲高い鼻唄を歌いながら。風呂場へ向かい、窓と戸を閉める音がして給湯器のポッ、と作動する音がする。シャワーの最中も、とぎれとぎれに鼻唄が聞こえる。週に二、三回、必ず昼過ぎに「おじさん」はシャワーを浴びる。石鹸は自前だ。湯上りの「おじさん」のそばを通ると、家の石鹸とは違うにおいがする。そして、洗面器のなかに、固く絞ったままの白い下着が見える。
 食事はどうしているのだろう。家の前の畑に腐葉土をつくっているところがある。刈り取ったわらとか雑草と土をサンドイッチ状に重ねて立方体に盛り上げたものだ。そこにときどきバナナの皮がのっている。「おじさん」は起きぬけにバナナかしら、と思う。そして、ちょくちょく鼻唄とともに勝手口から入ってきて、レンジでコンビニ弁当をチンしている。それは午前だったり午後だったり。一般的な食事の時間をはずした午前十時ごろとか午後二時ごろだと思う。夜は決して母屋に入ってこない。「おじさん」が納屋から出るのは、トイレや洗濯、シャワーや電子レンジを使うときだけのようだ。そういうとき、必ずと言っていいほど鼻唄まじりだ。照れ隠しなのか、位置を知らせているのか。忍び込んでいるわけではないと。鼻唄の曲名はわからない。いいかげんな旋律なのかもしれない。音色は高音で、草笛に似ている。

 九月に、今日子は二人目の男の子を生んだ。よく泣く赤子をばたばたと世話をし、上の子もまだまだ手がかかり、家の食事など家事全般を任されたので「おじさん」を気にする余裕はなかった。ごはんは一日に九合炊いた。一升炊きの炊飯器になじむと、アパートで使っていた三合炊きの炊飯器がおもちゃに思えた。
 でも、鼻唄まじりの「おじさん」の姿は、ときどき目の隅にはいる。今日子は「おじさん」を心の中でバートルビーと名付けた。バートルビーはH・メルヴイルの『代書人バートルビー』の主人公の名前だ。大学時代に読んだのを思い出した。
 ウォール街の弁護士が雇った青年バートルビーは最初勤勉に働くが、何かを命じられても「せずにすめばありがたいのですが」と丁重に拒むようになる。だんだん高じてくるバートルビーのこの奇癖を、周囲は変えることができない。そればかりか、受け入れているのに気がつく。バートルビーは筆写の仕事をしなくなり、事務所の一角、ついたての向こうに住み着いてしまう。なにをしているのかといえば、窓際に立ちつくし、壁を相手に夢想にふけるだけなのだ。
 困った弁護士が事務所の移転をするもバートルビーはそこを動こうとせず、とうとう家主に訴えられて刑務所に入れられる。弁護士が栄養のある差し入れを申し出ると、食事をしないほうがありがたい、などと言う。そして、刑務所の中庭で動かなくなっているのを発見される。

 秋の昼近く、今日子が母屋の居間で清司の紙オムツを替えていると、外から、
「雨だよ雨」
 かすれて高い声がした。バートルビーの初めて聞く声だった。洗濯物が干しっぱなしだ。どうもすいませーん、今日子はどこかにいるバートルビーに大声で感謝し、ツッカケをひっかけて飛び出す。大粒の雨だったけれど、そんなに濡れずにすんだ。うちのバートルビーは地声も草笛のようだ。

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 カルチャーセンターで小説を学んでいるという著者の、初の短編小説集です。40代の主婦を主人公とした6編は、21世紀の日本を等身大で見せてくれるようです。大都市から兼業農家の主婦になったという設定が多いのですが、都市と農村のブレを読者はいつの間にか気付かされます。視線が新鮮で魅力的な作品集と云えましょう。

 紹介したのはタイトルとなった「バートルビー」の由来を述べているところですが、この「おじさん」とは舅の弟。結婚後2年半経って同居を決めたあとに、長年納屋に一人で住んでいることを知らされます。気にしなくてもいい、いないものと思って生活してくれと言われるのですが…。
 6編ともプロットもディテールもしっかりしていて、とても素人が創った小説とは思えません。著者の文体にも好感が持てます。長短取り混ぜた文章は生来のリズムなのかもしれません。久しぶりに小説らしい小説を読んだ気になりました。お薦めです。今後のご活躍を祈念し、著者の作品はこれからも読みたいなと思いました。



増満圭子氏著
『わたしの「意識」を解き明かす』
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2007.10.10 東京都八王子市 武蔵野書房刊 1500円+税

<目次>
はじめに…5
一、「わたし」はどこにいるの?…13
二、「意識」がある?…22
三、意識は流れている…31
四、流れのかたち…48
五、意識の世界(1) 活動する「わたし」の「意識」――「わたし」と「わたし以外」との関わり――…59
六、意識の世界(2) 考える「わたし」――「わたし」の中の、もう一人の自分――…71
七、無意識の世界――「わたし」の知らない「わたし」の領域――…80
八、幽体離脱のはなし…102
九、自分さがしの「意識」理解…118
十、生きている私、生きていく私――霊魂と意識の違い――…133
おわりに…139
注・参考文献…147
カバーの絵・柳瀬京子



「こころ」とは、私たちの内部にある、無限の広がりです。「こころ」の中で、私たちは、いろいろなことを考える。「意識」とは、そ「こころ」の中での一つ一つの反応、動きそのものです。
「こころ」の中で、私達は、「意識」する。だから、自分を感じられます。
「意識」があるから、「わたし」を取り巻く、この世の中に存在できる。「意識」は、この現実の世界と、いつも密接に繋がって、さまざまな反応を繰り返してもいるのです。

 では、「意識」について、分かりやすく捉えるために、少し具体的に想像してみてください。
 例えば、事故に過ってぐったりしている人がいるとします。救急車が駆けつけて、救急隊員の人たちが、一生懸命応急処置をしながら、患者さんの反応を確かめています。そのとき、いくら問い掛けても、その人が何も答えず、うなずきもしなかったとしたら、救急隊員の人たちは、その患者さんの状態をどんなふうに言うでしょう。「意識がありません」と報告しますね。
 また、何か大きな手術を受けた人が、ずっと続いた昏睡状態から抜け出して、やっと目覚めて気が付いたとき、周囲は、「ああ、やっと意識を取り戻した」、などとほっと一安心する、ということもありますね。
 このような言い方は、誰でも一度は、聞いたことがあると思います。
 けれども、こういう場合、全く無反応な人々について、周囲は、その人のことを、「意識がありません」ではなくて、「こころがありません」と、言いますか?
「ああ、やっと意識を取り戻した」と言わずに、「やっと心を取り戻した」などとは、言いませんよね。
 このことからも、「意識」が、私たちの「いのち」、私たちが生きている、ということを的確に示す、もっとも重要な、いのちの反応である、ということがまず分かります。
 つまり、人が「生きている」ということは、「意識」がある、ということが第一なのです。

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 「生きている『わたし』の発見」と副題のある本著は、おそらく高校生などの若い人向けに書かれたものだろうと思います。アメリカの心理学者・哲学者、ウィリアム・ジェームズの『心理学原理』などを底本に、自分とは何か≠ニ悩む若い人に心理学的なアプローチで解説し、「安定しないこころ、迷っている自分に嘆かなくてもいいのです」(おわりに)と語りかけます。もちろんそう感じているのは若い人ばかりではなく、中年の我々も、老いた先輩たちにも通じることで、その面ではあらゆる世代に溶け込める本だと云えましょう。
 本著の特徴には、まだ科学的に解明されていない「幽体離脱」や「霊魂」について言及していることが挙げられると思います。著者の経験と教え子の大学生から寄せられた体験談には興味を覚えますが、私自身はそういう感性が無いようで、よく判りません。今後の科学的な検証が必要な分野でしょう。そこをいち早く提案しているとも思います。



   
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