きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2009.12.7 神奈川県湯河原町・幕山 |
2010.1.4(月)
遠丸立さんの葬儀の日です。親族だけで、とのことでしたから、私は伺いませんでした。遠丸さんのご冥福を改めてお祈りいたします。
○海埜今日子氏詩集『セボネキコウ』 |
2010.1.10 東京都千代田区 砂子屋書房刊 2500円+税 |
<目次>
すずほね通り 8 嫁入る狐.蜃気楼 12 あおようび 18
二重壁 24 門街 28 造花売り 32
砂街 36 紙宿 38 蛋白石 42
雁信 48 せきゆすい 52 金魚町 56
とんぼ玉、買い 60 鬼灯街 66 蝶市 70
ひにいるむし 74 卵売りの恋 コノハナサクヤ 78
鳥窓 84 虹を鳥に蔓を 88 瓶の森 92
くびかざり坂 98 影街 104. みずのね、 108
せぼねきこう 112. まつよいまちぐさ 116. 風媒歌 122
恋ふみ 126 . 南十字へ。 132
あとがき 136
装本・倉本 修
せぼねきこう
たどった高原をおきざりに
ふくらむねんげつにみえにくくなります
もうすぐ山がはじまって
いつしかおとこをすべるだろう
よびとめられ 風をこたえる
せすじのとおさもかぞえたかった
きろくをそよぐわずかさのまえにて
ふるえるかんじょうにさきみだれ
かれた草のこういをかきわけ
あたしはますます土をざわめく
のばしたせなかにまでこぼれるので
はらをなぞってすくいとろうと
へいこうで きんこうで
ようしゃのないひたむきさたち
ちゅうとのくぎりをいそいでいる
土地のにおいかもしれなかった
あおいだ口はそしゃくをまねる
高原のおいつき ひきはなし
おんなをますますへいたんにした
だいぶたったらあそびますか
ぶんだんされたばしょをさすって
せすじをまとってたってみる
きこうをよみこむ草のさきから
ふるいれっしょうのしばしまたたく
もたげたあしどりをまきつけて
ぐるぐるとあたし ひびきたかった
こだまたちにひきずられ
ちいさなへいめんをかざしている
おとこたち ずれたせん
のぼらせてみる かたむいて
とてもせなかをはうようにして草があおいだ
きごうをかきわけるしつようさに
風にまつまるかんしょうのとわれる
しずんだくぼみをたしかめながら
さいげつだったかをふところにまとめる
山のはしをさかいめにみたて やくそくを
こうさくさせたというのはどうですか
いきいそぐようにくずれるそぶりを
たいらなばめんですうかいためす
やぶれた茎をかいで
にたものたちをほとばしれ
きっとおんなのこぼれる風です
へいちにむけてのぼりつめ
高原のかんしょうをあたためていた
もうすぐ草がはじまって
いつしかおとこをかするだろう
といかけるようにしてなまえをとなえる
せなかのすじはたどらない から
だいちをはしるちいささのまえにて
におったものを生にほうる
あたりはますますひびきわたった
5年ぶりの第4詩集です。ここではタイトルポエムと思われる作品を紹介してみました。あとがきのほとんどを占める文章は、この作品について書かれていますので、それも合わせて紹介しましょう。
<日常と幻想、この二つの狭間をいつも気にかけてきた。それは日々と芸術ということかもしれない。私は後者を、芸術をずっと切望してきた。それだけあればいいと思っていた。だが、それは背中だ。腹という現実がなければ背中はありえない。背中がなければ腹もありえないように。背骨とはたとえばそういう意味だ。背骨は腹と背の狭間にある骨だ。
わたしにとって芸術は他者でもあるかもしれない。わたしは他者をずっと求めてきた。彼らとはどうしたってひとつにはなれない、違うから。わたしが腹だとしたら、彼らは背中だ。あるいは彼らは毎年咲く花であるかもしれない。わたしは季節を教えてくれる花たちに共鳴する、背骨がきしむ。それだけが花を、他者を感じる術だろう。或いは違うからこそ求めるのだ。日々があるからこそ旅を求めるように。では“キコウ”は? 背骨というマストをもった船の寄航、寄港、または背骨の紀行かもしれないし、奇行であるかもしれない、気候を感じたいのかもしれない。わたしはことば遊びをしているのではない。腹と背中という歴然とした区別はある。だがそれらをまたいで、共鳴する背骨のキコウに、わたしは様々なたとえを託している。それは平仮名によせる想いでもある。平仮名は、読みにくいかもしれない。だが、そこにそれぞれが想いをあてはめてくれればと思う。
また“セボネキコウ”には、こんな共鳴も含まれている。「キキの体が、陽炎の向うに揺れて広がる一つの町のように見えて、ふと戸惑うことがある。なだらかな丘陵地帯に、横に長く伸びるその町は、春の風景にしては静かすぎてどこか空々しく、淡すぎて変によそよそしく、それなのに懐かしすぎて声を上げたくなる。(中略)あの春の町は、クノップフが百年ほど前に描いたブリュージュの町だ。フランドルの詩人ローデンバックが〈死都〉と呼んだ、ブリュージュの風景だ」(久世光彦『聖なる春』)。詩とは、旅と日々の間でゆれうごく背骨であるのかもしれない。>
これで「セボネキコウ」または「せぼねきこう」が“背骨寄航
or 寄港 or 紀行 or 奇行 or 気候”であることが分かりました。〈背骨は腹と背の狭間にある骨〉と捉えれば、作品の〈高原〉や〈山〉、〈のばしたせなか〉のイメージが浮かび上がってきます。そこに〈おとこ〉や〈おんな〉がいて、〈日常と幻想〉、〈日々と芸術〉が見えてきます。しかし、この詩は完璧に意味を求めてはいけないと思います。意味を半分、言葉としての音を半分、そして絵を眺めるように字面を半分眺めることが、たぶん“正しい”接し方だと云えるでしょう。
なお、本詩集中の「砂街」、「紙宿」、「雁信」はすでに拙HPで紹介しています。こちらもおもしろい作品です。ハイパーリンクを張っておきましたので、合わせて海埜今日子詩の世界をお愉しみください。
○一枚誌『表象』3号 |
2009.12.8
山形県鶴岡市 万里小路譲氏発行 非売品 |
<目次>
睦月 房内はるみ
乗換駅のホームで 吉野弘詩集『陽を浴びて』より 万里小路譲
招待状 北原千代詩集『スピリトゥルス』より 万里小路譲
水の中の空の色 長田弘詩集『人生の特別な一瞬』より 万里小路譲
睦月/房内はるみ
長い物語を読んで生まれたゆたかな時間
ことばの海をゆったり泳いで 岸へあがると
影は東へながくのびていた
だれが落としていったのだろう
木蓮の裸木にかけられた 薄絹のようなオレンジ色のベール
氷を溶かしたふくよかな風が ベールの端をつまみあげると
何者かの気配がする
だれ?と聞いても 応えはなく
気配は木の根元にうずくまったり
隣家の屋根に飛びのったり
福寿草の芽をいじったりしている
わたしはまだ本の最後のページに溺れたまま
気がつくと
ベールは消え 木々は灰色のシルエットになり
そのむこうの空は 春を孕み
鮮やかな紫色をはなっている
静けさのそよぎのなかを一日がゆっくり降りてきて
わたしの胸のあたりで止まった
〈長い物語を読んで生まれたゆたかな時間〉のあとの感覚が〈薄絹のようなオレンジ色のベール〉という詩語によく表されていると思います。〈氷を溶かしたふくよかな風〉という表現も、タイトルの「睦月」を巧く現わしていると云えるでしょう。最終連の〈静けさのそよぎのなかを一日がゆっくり降りてきて/わたしの胸のあたりで止まった〉というフレーズも佳いですね。読書のあとの至福の時間を見事に表現した佳品だと思いました。
○一枚誌『表象』4号 |
2010.1.1
山形県鶴岡市 万里小路譲氏発行 非売品 |
<目次>
決意・旗 平塚志信
創 『現代詩文庫123
続続吉野弘詩集』より 万里小路譲
晩秋初冬抄 万里小路譲
選ばれなかった道 Robert Frost 万里小路譲訳
晩秋初冬抄/万里小路
譲
◇1
切り捨てられる
カレンダーの逆襲
指の腹から沸騰する
血による企て
◇2
中津川渓谷という森の
もみじの紅と黄色が
脳内を幻惑する
十月 戻らぬ世界
◇3
渓谷の森から
湧き立つ白い靄の宇宙
ひとのいない世界は
こんなにも美しい
◇4
十二単のように山肌の
裸身を蔽う葉と葉の祝祭
緑 黄 赤 茶……
色の言葉はもう見当たらなくて
◇5
静脈のような枝の自在
葉の重みに垂れ
高みを目指し 沈黙の
現在を呼吸する
◇6
十二月 足跡ひとつない
雪の平原に夢幻のごとく
立ちすくむ一本の木
長野木曽町 神の生誕
◇7
遠い太陽の投影から
葉ひとつない裸木の
花火の大輪のような枝々
神々の密やかな祭礼
◇8
曙光を受けながら
葉を落とした枝々の
延伸という企投
山の頂きより高く
◇9
物語さえ潜めている
澄んだ空気の古戦場
山里は淡く
ただ淡く紅に染まりて
◇10
月明かりのような
遠景の太陽の幻燈
すでにすっかり
世界は幻だったのに
――終わりし二〇〇九年の記憶に
注釈にあるように2009年を振り返っての作品なのでしょう。〈ひとのいない世界は/こんなにも美しい〉、〈色の言葉はもう見当たらなくて〉、〈沈黙の/現在を呼吸する〉などのフレーズに魅了されます。おそらく短歌や俳句の世界の感覚に近いのかもしれませんが、詩としての自由さがここにはあると思います。〈立ちすくむ一本の木/長野木曽町 神の生誕〉は伝統的短詩系では表現できないのではないでしょうか。